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御法事

05 2月

終日「村の道場」で過ごす
   今日は、村の「御法事」。午前9時半から午後五時まで昼食を挟んで村の道場(寺)で過ごした。午前中、読経があり、その後、市内の法勝寺の住職による説教。午後は戦没者の法要が行われ、その後、再び説教。親鸞聖人の教えを説きながら、様々な話が繰り広げられた。 

   私は、若い頃からかなり道場に足を運んでいる方だと思う。今日、道場に集まったのは、50歳代が数名、あとはほとんどが60歳代、70歳代、80歳代だった。 

村の道場で法勝寺の住職さんの説教を聴く区民の皆さん。

   寺へ来たときには、説教でいろんな話を聞くことができる。私にとっては、自分を見直す機会になるし、普段はあまり話すことのない村の人たちと世間話をすることができて楽しい。 

 私たちの子供の頃は、何かと道場へ出かけたものだ。道場は村の文化会館であり、集会所でもあったのだ。 弁士の付いた無声の巡回映画が上演されたり、講演会や演芸会なども行われたのだ。 

  夏休みなどには、子供達のたまり場でもあったのだ。しかし、今の子供達はどうだろうか。集会所は別にあり、家にテレビやゲームなどもあり、道場へ集まる機会などほとんどない。まして、宗教的な行事となるとなおさらそうである。 

  今の子供達が大人になった頃には、道場での宗教的な行事は、廃れてはいないだろうか。何事によらず、子供の頃からいろんな機会を与えないと、大人になったとき、子供達に何も伝わらなくなる可能性がある。 

  新年度は、地区の人たちに、村の歴史やいわれなどを紹介したいと思う。それと同時に、一見他人のように思える村内の人たちともつながっているのだということを知らせたい。 

  例えば、日中、村で災害が発生したときに、それらに対処できるの都会に出た息子や娘ではなく、福井に勤めている子ども達でもなく、村の中に常時いるいる人たちだ。普段はつながっていないようでも、実はお互いに支え合っているのだ。 

  そのためにも、区民はお互いに日頃から、顔見知りである方がよい。大人も子供もだ。ケネディではないが「村が自分に何をしてくれるかを期待するのではなく、自分は村に対して何ができるかを考えてほしい」ものだ。道場での交流もそういう意味では大切だ。 

担ぎ桶胴太鼓による千手観音の演技。

(日記 午前9時半より午後5時まで村の道場で「御法事」。その後、少し、事務所の駐車場の除雪作業。午後7時より「春駒太鼓」の和太鼓練習。来週の「鹿谷雪祭り」のための練習。それにしても、三度の食事づくりは買い物も含めて大変だ。) 

98円のでかい赤カブ。

スライスした赤カブに漬け物酢を注いで作った「赤カブの酢漬け」。おいしかった。一個の赤カブで一週間は楽しめるだろう。

 
 

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