RSS
 

『白山平泉寺物語』

29 2月

平泉寺の大きさ
  平泉寺の隣村の片瀬で暮らして、まもなく70年。しかし、私が、平泉寺に興味を持ったのは恥ずかしながら60歳を過ぎてからだ。それまでは、苔が有名であること、33年に1度の『御開帳』があること、発掘が進められていることぐらいだった。

  我が片瀬の背後にある山は「大師山」と言うが、大師とは誰のことかも長い間気に留めなかった。しかし、そういえば、登山口に当たる村の入り口には、子供の頃から「泰澄大師旧跡地登り口」と書かれた標柱が建っていたことを思い出す。

  また、大師山の中腹にあるのは神社か寺かということも曖昧だった。ある時までは神社扱いである時から寺扱いになったように思う。しかし、よく考えてみると神仏習合で寺であり神社であると考えてもよいのだ。

  小浜に神宮寺という寺がある。毎年3月2日に「お水送り」を行う寺だ。以前にこの寺を参拝(見学)したときに、「寺でありながら神も祀られている」とガイドの方がおっしゃった。私は、「寺の名前からして神と寺(仏)が同居していますね。」と申し上げると感心しておられた。この寺は、泰澄大師の弟子沙門滑元が創建したと言われている。

  教育委員会勤務になってから、少し平泉寺について知ろうということで、平泉寺について調べ始めた。調べれば調べるほど興味あることが次々と現れるのだ。そこで、これらの映像を作って「図書館祭り」に紹介したのが、平泉寺についての資料作りの始まりだ。

  しかし、この頃は、まだ「平泉寺時代」というのは、一向一揆による焼き討ちにあって、それらが顕海僧正によって再興される頃までだと考えていた。その後、いろんな書物を読んでいると、平泉寺時代は少なくとも「神仏分離令」の出された明治時代まで続いたと考えるようになった。

  北陸の山奥にあった平泉寺が常に中央と関わりを持っていたことが分かり、ますます興味が湧いてきた。また歴史上の有名な人物とも関係が深いのだ。そんじょそこらの寺とは訳が違うのだ。

図書館野方に作っていただいた紙芝居『白山平泉寺物語』のポスター。  徳川家康と平泉寺を結び付けるものは何か。それは、家康の次男の結城秀康だ。秀康の「秀」は秀吉の「秀(豊臣家へ養子(人質)に出され、後に結城家へ)」で、「康」は父である家康の「康」だ。2代将軍徳川秀忠の兄でありながら将軍になれなかった越前藩初代の藩主だ。

  この秀康が福井へ着任すると同時に、平泉寺へ毎年200石の寄進を申し出ている。今なら三千数百万円の価値があるとも言われている。いかなる経緯でこうなったのかは定かではないが、焼き討ちにあって弱体化したとはいえ、平泉寺の存在を無視できなかったからではなかろうか。

 豊臣秀吉と平泉寺、徳川幕府と平泉寺、歴代将軍と平泉寺、……、一見つながりがないようでも平泉寺は常に中央の政権、権力者と深いつながりがあったことが調べるにつれて分かってきた。まだまだ平泉寺ついては分からないことだらけだが、調べるに値する価値はあると思っている。

  難しい平泉寺の歴史を語るのは、専門家に任せるとして、私は素人なりに平泉寺について情報を発信したいと思っている。3月20日、大人向けに創作紙芝居『白山平泉寺物語』を演ずる機会を図書館からいただいた。光栄に思う。市民の皆さんに平泉寺に興味を持っていただけたらと思う。

(日記 午前中、「農事組合法人かたせ」のNさん宅で組合について話しをする。片瀬の農業についての話しだが、雑談も半分あった。楽しかった。私のノートパソコンが最近不具合になった。午後、私のパソコンの私設顧問(失礼)みたいな息子の友人Y君が来てくれた。修理を依頼した。)  

 
 

Leave a Reply