『白山平泉寺物語』の登場人物
午後は、29日の資料作り(パソコン)を行った。聞いている人が退屈しないような工夫が必要だと思った。話のタイトルは、「我が家あってふるさとなし」だが、先ずは、故郷を知ってほしいと思うからだ。
勝山の人に勝山を知っていただくことによって、地域への関心を持ってもらえればと思う。 その一つとして、 「え?この人が平泉寺に関係しているの?」という驚きを持って貰いたいと思う。
そこで、「豊臣秀吉」、「徳川家光」、「織田信長」、「後醍醐天皇」、「結城秀康」、「朝倉義景」などの絵を示して、平泉寺とどのような関係があるのかを考えていただきたいと思う。
その一人、「結城秀康」は、どんな人で、どこで平泉寺に繋がっているのかを考えていただきたいと思う。色々調べてみると、興味あることが次々と明らかになってきた。
結城秀康は、越前国、北の庄藩(福井藩)の初代藩主である。
結城秀康は、徳川家康の次男である。長男が織田信長により切腹させらられたために、家康の後継者として将軍になるはずであった。
結城秀康は、秀吉と家康の和解のために、秀吉の養子(人質)に出された。
結城秀康は、養父「秀吉」と実父「家康」からそれぞれ一字ずつ取り「秀康」と名乗った。
結城秀康は、豊臣家の養子にはなれずに(秀吉に鶴松誕生)、結城家へ再度養子に出される。
結城秀康は、関ヶ原の後、家康より、結城10万千石から越前北の庄67万石に加増移封。
結城秀康は、福井へ着任すると直ちに「平泉寺」に対して毎年200石(今の金額にして三千数百万円の価値)を寄進を約束。
これだけの人物が、なぜこれだけの寄進を申し出たのだろうか?一揆に破れ弱体化した平泉寺に対して。過去の歴史から考えて、平泉寺を味方につけなければ、福井を治めきれなかったのだろうか。
いろんな有名人が平泉寺に関係しているのだ。平泉寺にはそれほどの存在感があったのだ。そのことを知ってもらえればと思う。平泉寺には、苔以外にも興味のあることがたくさんあるのだ。
(日記:午前中、林道の草刈り。 その後、開墾した畝に自宅で育てていたトマトの脇芽を植えた。午後は、パソコンで資料作り。夕方、妹夫婦が九州からやって来た。話が弾んだ。)