授業は教師の命
教員になれば誰もが等しく行うのが、授業である。この授業であるが、うまくいったと思えることは少ない。というよりも、個人の中で常に進化し続けるものであると考えた方がよいかも知れない。
私はずいぶんたくさんの授業をしたと思っているが、一方ではかなり沢山の授業も見てきた。そして、自分の授業観も年齢と共に変わっていったと思っている。
授業は、説明ではない。少しでも児童・生徒がよく分かるようにあの手この手を使って理解させることでもない。別の言い方をすれば、教科書を教えることではない。教科書で教えるといった方が当たっているかも知れない。
他人よりも、知識の量が少しでも多い子どもを育てるよりも、未知のものを探求しようとしたり、学ぼうという意欲を持った子供を育てる方が大切であろう。今の時代は、その気になればいくらでも学ぶチャンスはあると思う。
大切なことは自ら学ぼうとする子どもを育てることである。となると、教科書を教えているだけでは子ども達にそのような気持ちを育てることはかなり困難である。教科書を使いながら、子ども達が、自ら考え、自ら解決しようとする気持ちを持たせることが必要であろう。
大人の背中で育てる
子どもに向かって親や教師が「夢を持ちなさい」ということは簡単である。よほどでない限り、そうしたメッセージは子ども達に伝わり難いであろう。それよりも、大人自身が自分の夢に向かって努力する姿を見せることの方が大切であろう。
「もっと生き生きとしなさい」と子どもに向かっていうよりも、その言葉を発する人間が生き生きとすれば子どもにもそれは伝わるはずである。言葉で教えることができることと、言葉では伝わりがたいものがある。
私も数学を選んだが、大学で数学を学ぶ楽しさを常に口にする教授の姿を今も忘れない。「数学を学ぶことが楽しくない人間は、数学を学ぶ意味がない」というようなことをおっしゃったことを今も覚えている。
楽しそうに数学について語るその姿は今も私の脳裏に焼き付いている。
何歳になっても、日々の生活を楽しむ心の余裕がほしいものである。教員を目指す人、現在教員である人に贈る言葉があるとすれば「教師という仕事を楽しんでほしい」という一語に尽きる。
どうすれば、子ども達を意欲的にできるか、創造的な人間にすることができるのか、そんなことを考えながら、あれこれ思案することは教師冥利に尽きる。苦労は多いが、楽しい取り組みであり、やりがいのある仕事であろう。
(日記:午前中、越前大仏へ和太鼓を運搬。午後は、車庫や部屋を清掃。まもなく息子の家族が帰ってくる。孫達との再会が待ち遠しい。)