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Archive for the ‘未分類’ Category

春の足音

28 3月

間違いなくやってくる春
     自然界の動きをみていると春の足音が確実に聞こえてくる。冬と春の気持ちの切り替えは、我が勝山では「左義長」が一つのタイミングかもしれない。左義長の頃は、名残雪がちらちらと降るにもかかわらず。

   あれほどあった雪も、かなり解けてきた。我が家では、日当たりのあまりよくない家の後ろ側にはまだ雪が残っているけれども、家の前の雪はほとんど解けてしまった。

  畑の雪もほとんどが解けている。除雪機でうずたかく積んだ雪を残して。雪の下から、水菜の緑が顔を出し、もうすぐ食べ頃となる。大好物のエンドウも芽を出している。タマネギも昨年暮れに芽が出始め、その芽が雪に耐えて春の成長を待っている。

  たくさーん植えた(村一番かも)ニンニクも雪の下で頑張り、さらに成長しようと待っているようだ。初めて植えたそら豆も期待の作物だ。イチゴはジャムを作るほど実るだろうか。これらの成長を楽しめるのが春だ。

  もう、冬のつらさを忘れている。忘れて春に期待をしているのだ。だから冬が来ても耐えられるのだ。どんなに雪が降っても、月日が経てば春になり、いろんな収穫が期待できる作物が待っていてくれるのだ。

  春の収穫を期待できるものは、畑ばかりではない。今なら土手に、たくさんの蕗の薹が出てきている。そして、山菜のシーズンがやってくるのだ。ワラビ、ゼンマイ、タラの芽、蕗……、どれも大好物だ。

  春はまた、人事異動のシーズンでもある。今朝も教職員の人事異動が載っていた。異動とは無縁の生活を送っているが、それでも、何となく心が騒ぐ。知っている後輩達の昇進を見ていると、ずいぶん時間が経ったのだなあとも思う。

  まだまだ気温は低いが、少しずつ暖かくなり、クーラーがほしくなる夏も控えているのだ。四季がはっきりしている地域に住んでいるから、生活にメリハリができる。

 人も含めて、全てのものの「良さ」を見つけながら生きていきたいと思う。人や地域の不満や不便な所ばかりを見つけて生活するよりも、よいところを見つけながら生活する方が遙かに精神的によい。

(日記 午前中は部屋の片付け。その後、雪で折れた木や竹を車に乗せて大野にある清掃センターへ運んだ。午後も、部屋の片付けなどを行った。その後、明日我が家で行う区の「新旧役員連絡会」の資料作りを行った。孫達は、母親の実家へ出かけた。)

 
 

バンド事始め

27 3月

今年の活動方針を相談
  昨年の10月の大学の軽音楽同好会OB会演奏会がきっかけで、あちこちでバンド活動が復活しつつある。昨年は、福井バンド、東京バンド、浜松バンド、奈良バンドが出演し、個人も2組ほど参加した。

  今年は、昨年よりバンドの数が増えそうである。福井は2バンド、東京、浜松、名古屋、奈良、四国と個人だ。昨年は4バンドだったが、今年は、7バンドになる予定だ。

  我々福井組は、ハワイアン・ウェスターン系1バンドと3管楽器を中心としたジャズ系1バンドだ。今日は私の事務所で、バンドの編成と今年の練習方針などを決めた。

  昨年の我々のバンドは上手ではなかったと思っている。しかし、それが逆にバンドを組んでいなかった連中を刺激したのか、一気にバンドを組みたいというメンバーが増えた。「あの程度なら自分たちもやれる」と思ったのだろう。

  福井バンドのメンバーは、62歳くらいから最年長の私の69歳までだ。メンバーの状況もいろいろだ。完全にリタイアしている者が4人、自営で半日仕事をしているものが1人、後は、仕事を持っている者だ。といっても、退職してから新たに仕事を続けているという感じだが。

昨年のOB会で演奏した福井バンド(ドラムは私)。於:浜松のホテル

 したがって、平日の日中から練習できる者が4人、残りは土日か平日なら夜しかできない。今年もOB会に出演する予定だが、慰問活動もやりたいと思う。

  バンド練習は、私たちにとっては、楽しみであり、頭の体操になっている。身体に運動が必要なように、脳にも何らかの刺激が必要だ。バランスのある食事、健康を維持するための運動とまったく同様に、バンド活動は生きるための必要条件だと思っている。

(日記 午前中、家の清掃。動きの悪くなったふすまを直すために、ジャッキで敷居を上げて、戸を外し、削って再度入れた。スムースにふすまが動くようになった。午後2時より、福井バンドの仲間が集まって、今後の活動方針について話し合った。今年も、楽しい時間が始まる。うれしいことだ。)

 
 

仕事で私が大切だと思うこと

26 3月

Yさんのメールに応えて
 私は予てから(学校教員時代から市教委時代にかけて)仕事では三つのことが大切だと思ってきました。そして、それは今も変わっていません。それは次の三つです。

  事を行う場合、重視したいのは、「現状分析」・「前例改善」・「内容重視」の三つです。「PDCA」サイクルが大切だと世間では言われていますが、私は前者の方をとります。

  「DO」はどちらも当たり前です。実行するために考えることですから。

 先ず事を為す場合、現状がどうであるかをよく分析しなければならないと思っています。現状分析が十分でないままではしっかりした計画を立てることはできないと考えています。

  役所時代にも、「我が課は何のためにあるのか」をよく考え、「現状はどうなのか」をよく分析して「何を優先すべきか」をよく考えてほしいと訴え続けました。何も考えずに、「前例踏襲」でも格好はつきますが、進歩はないと考えています。すなわち、前例踏襲は退歩です。

  従って、私の意見は、現状をよく分析し、「何を継続し、何を改善していくのか(前例改善)」をよく考えて行動に移ってほしいと願っています。運動会であろうと文化祭であろうと、地域の行事であろうと何であろうと、どこかによりよくするための改善の余地がないのかを考えるべきだと思っています。

  さらに、実行に当たっては、形式を重視するのではなく、「内容を重視」してほしいと願っています。子ども達に何かをやらせる場合、大人が全て段取りをして、子ども達をそれに従わせれば見かけはよくなるでしょうが、子ども達が得るものは少ないと考えています。

  Yさんの取り組みは、そうした観点からも、素晴らしいと思っています。昔は、親が忙しくて子どもにかまっている時間はあまりありませんでした。また、「もの」も十分になかったために、子ども達が創意工夫を凝らして遊んだり、作ったり、学んだりせざるを得ませんでした。

 その分、想像力や創造性が育ちました。今は、子どもの全ての活動に大人が関わり、子ども達は、いつも指示を仰ぐ立場になってしまいました。昔に戻ることはできませんが、今の子ども達にも、企画の段階からいろんな活動に参加させたいものです。

(日記 午前中、部屋の片付け、資料整理。思い切って捨てられたらどんなにいいだろうと思いながら、それができない自分がいる。午後は大野のY整骨院で治療を受ける。夕方は、ウクレレ奏者、島袋氏の「フラガール」の楽譜をパソコンに入力する。ウクレレが弾けたらいいなあと思う。あれもしてみたい、これもしてみたいと気が多すぎる自分を持てあましている。)

 
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釈尊涅槃会 だんごまき

25 3月

団子まきに孫が全員集合
  今日は、『釈尊涅槃会』のだんごまきの日だ。役員はじめ関係者は午前9時に神社へ集合。昨日までに作った団子を飾り付け、幕を張り、椅子や座布団を並べ、ストーブを準備して開会を待った。 

団子まきが行われた佛母寺(上左)、涅槃図と住職の読経。住職の挨拶(下左)、私の孫たち(下右)。

 

  午前10時過ぎに、かなりの人が集まった。わが家でも横浜の家族(長男は仕事のため横浜へ戻った)4人、そしてたまたま帰ってきた長女と二人の子供が参加した。私たち夫婦を合わせると全員で9人だ。偶然5人の孫たちが全員参加した。 

 最初に奉賛会の代表より挨拶があり、住職による読経が行われた。その後、参拝者全員が焼香を行った。そして、いよいよ団子まきだ。団子をまくメンバーは、「芋と生姜と旨い米」と襟に書かれた銭太鼓の法被を着用した。 

  私もそのメンバーの一員として、団子をまいた。参拝者から「こっち!こっち!」と声がかかった。その方めがけて団子をまいた。最後に住職が挨拶し、区長の閉会の挨拶で団子まきは終わった。 

焼香に向かう私(右から2番目)と孫。

 

  最後の住職の挨拶のときに、私が昔書いた詩「昭和の子供たち」を紹介しながら挨拶された。その詩の中には、昭和時代のモノのあまりなかった時代の生活が書かれていた。釈尊の物欲に対する戒めとを対比しながら挨拶された。 

  確かに平成の今は、多くの人たちが「欲」に動かされて行動している。原子力もまた欲望の果ての産物であるかもしれない。持続可能な社会を目指して私たちは際限のない物欲を捨て、精神的な豊かさを目指すべきではなかろうか。 

 ・・・・・・・・・・・・・(ネットより)・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「釈尊涅槃会」は二月十五日のお釈迦様のご命日にお釈迦様のご供養を行います。涅槃会では仏舎利の代わりとしてお団子をおまきします。皆様には「団子まき」として親しまれてきました。涅槃だんごは古くから身につけて山での御守り、交通安全の御守りとしてもご利益があるといわれ、またお団子を頂け 

メインイベントの団子まき。

 

ば、一年間無病息災のご利益があるとして珍重されていました。
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(日記 午前9時より団子まきの準備のため佛母寺へ行く。10時より「釈尊涅槃会の団子まき」が始まった。我が家では孫全員が参加した。午後5人の孫たちがいて、なんとなく過ごしてしまった。夜、家内と一緒に5番目の孫を風呂に入れた。わが子を風呂に入れて以来35年余りが過ぎたことになる。あのころは子育てに必死だった。今は、余裕を持って孫たちと接することができる。) 

団子まきに参加した我が家の孫たち。

 
 

地区の行事

24 3月

次世代につなぐために
   地区にはいろいろな行事がある。秋祭りや新穀感謝祭など村の行事、団子まきや御法事などの宗教的行事、キャンプ、クリスマス、七夕などの子供会行事、地区の競技別の大会(バレー・ソフトボールなど)や町民運動会などのスポーツ行事などである。

 これらの取り組みの中に、「次世代育成」という観点を加えてみると、そのやり方は変わるのではなかろうか。全てを高齢者や大人達が段取りして、若者や子ども達がそれに参加しているだけでは、次世代育成はならないだろう。

 子供会行事ならば、子どもを客人にするのではなく、企画の段階から参加させたいものだ。保護者が段取りした中で子ども達が参加しているだけでは、子ども達は達成感を味わえないだろう。

  見かけは順調に事が運んでいるようでも、得るものは少ないように思われる。案外大人達は、うわべのきれいさにこだわるものだ。しかし、どせやるのなら、実のあるものにしたい。

  それには、事を行う前に、「何のためそれをするのか」、「そこから何を得ようとしているのか」をよく考え、共通理解を持って始めなければならないと思う。今年は、村の役を引き受けたのでそのあたりを念頭に置きながら、事に当たりたいと思う。

明日の団子まきに備えて、昨日作った紐状の団子を切る区の関係者。

(日記 午前中、子育てマイスター関係の文章作成などを行った。昼近くに、嫁と3人の子どもを残して、息子は横浜へ帰って行った。午後は、昨日作った涅槃団子を切る作業に、孫と一緒に参加した。参加した子どもはうちの孫一人であった。老人会、村の役員など、年配者が多い中、包丁で昨日作った紐状の団子を1㎝弱の厚さに切っていくのだが、私は孫の横にいて手を切らないように気を配りながら作業を見ていた。午後4時から、子ども太鼓。3曲目を練習しているが、保育園の園児でもかなりできるようになった。何となく慌ただしい一日だった。)

団子を切るうちの孫。昨日の夜、横浜から帰省して今日は村の人に交じって団子を切っている。いい経験だと思う。

きれいに切られてできあがった涅槃団子。

 
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年中行事 涅槃団子まき

23 3月

復活した団子まき
  今度の日曜日には、区内の佛母寺の涅槃団子まきがある。3年前に復活した行事だ。私たちの子供時代にも佛母寺の団子まきがあり、そこで拾った団子を小袋の中に入れて持ち歩くと、蛇に嚙まれないという言い伝えがあった。

団子つくり。今日は、右下の紐状の団子を作るまでの作業が行われた。

 今日は、その行事のための団子作りがあるのだ。米粉ともち米の粉を混ぜ合わせ、水をいれてから着色するのだ。こうして白、赤、青、黄色の4色の塊を作り、色別に蒸篭に入れて蒸すのだ。

  その後、臼に入れて杵でつくのだ。つき終わった団子は、少し冷まし、4色を合わせて紐状にするのだ。今日の作業はここまでだ。村の役員と老人会の会員が集まった。

  明日は、子供たちと一緒に紐状の団子を切るのだ。そして、明後日の日曜日が本番だ。村の子供たちが楽しめる行事になればと思う。団子つくりによって、区民が集い、本番では、子供から大人までが集い、世代間の交流も始まるのだ。

  住職の話を聞き、お経を聞き、そして、待望の団

ボールで米粉と餅米の粉を混ぜ合わせてから着色し、4色の団子を作っているところ。

子まきが始まるのだ。山際の静かなお寺で、このような行事を今も続けることに価値があると思う。

(日記 午前中は、家の整理。午後も、作業を継続。午後7時半から、教育会館で旧勝山町の婦人会の盆踊り練習。今年もいよいよ始まったという感じだ。夏に向けて今年も『盆踊り復活』のアクションを開始したい。午後8時半ころ、横浜から息子の家族が帰ってきた。ちょうど2月前に生まれた子供(私の5番目の孫)を連れて車で帰ってきたのだ。私は、初対面だ。早速抱き上げてみた。孫たちに会えて本当にうれしい。今日も、一番上の孫とは川の字になって寝るのだ。)

教育会館での民謡の練習。

 

横浜で生まれた息子の3女。私の5番目の孫だ。家族5人で横浜から車でやって来た。

 
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電力会社の名前

22 3月

地域名ではなく供給先の名前
  電力会社の名前は、地域名とは異なる名前になっている。主に東京に電力を送る電力会社が「東京電力」であり、「関西電力」も同様である。

  開発の遅れた地域、産業のない地域に立地しているのは何故か。以前から「東京で使う電気なら東京で発電すればいいのではないか」という意見が出ていた。

 「原発は安全だ」と言って国策で先のような地域に原発を設けてきた。当時から、「そんなに安全だというのなら東京湾に作ればいいのではないか」、「原発を新宿に作ったら」という意見さえもあった。

 しかしそうはならなかった。それは、何が起こるか分からない不安があったからではないのか。今日、整骨院で待っている時に、見ていた週刊誌には。原発を作り始める時期の経緯が載っていた。

 悲しい思いでその週刊誌を読んでいた。「多数決」がいつも正しいとは限らない。特に安全に関しては、多数決だけに頼るのは危険だ。一方的な意見だけで押し切るのではなく、いろんな人の意見の聞いて実施するかどうかを考えてほしい。

 原発再稼働は、特に慎重にやってもらいたい。今また、安全よりも雇用など経済面を重視した意見があるのは悲しいことである。まだまだ、未知の分野が多いだけに、慎重に事が運ぶことを期待したい。

 画役に、安全で持続可能なエネルギーに転換するチャンスではないのか。しかし、 「原子力ムラ」の人達は利権をおかされるので許し難いことかもしれないが。「原子力ムラ」の人達には、少しは、ブータンを見習ってほしいと思う。

資料に挿入した『片瀬豊年ばやし』の写真の一部。

(日記 午前中、3台の車のスノータイヤを外し、一部の雪囲いを片付けた。午後も、作業を継続。午後4時半にY整骨院へ行った。島根県から小学生が二人来ていた。10日間集中的に、股関節の可動範囲を広げるのだという。6年生の兄の方は完全に「股割り」ができるのだ。そして、その状態で、胸を床に着けることができるのだ。ダルビッシュのように。夜は、「わがまち魅力醸成事業報告会」のために、『片瀬豊年ばやし』に関する資料を作った。)

 
 

ハワイ旅行記 六日目・7日目 さらばハワイ

21 3月

二つの顔を持つハワイ
  「常夏の楽園ハワイ」と「悲劇の歴史を秘めたハワイ」、この二つの顔を少し知ることができた。そして、今日はハワイでの最終日。午前5時45分起床。そう思って目覚ましを合わせたつもりが、間違えて1時間前にベルが鳴り午前4時45分に目が覚めて

5日間お世話になった「シェラトン プリンセス カイウラニ」。1152室もある大きなホテルだ。玄関には戸がない。誰でも出入り自由な感じだ。

しまった。

 午後6時45分に係員がホテルの部屋まで荷物を取りに来てくれた。部屋で朝食を食べて午前6時45分にホテルの玄関へ行くと、迎えの小型車が来ていた。一路、ホノルル空港へ。暇なので、日本へ行くという外国人の老夫婦にに話しかけてみた。

 カナダから日本で働く息子の所へ行くというのだ。日本では3週間滞在するということだった。息子さんは日本女性と結婚し、最近孫が生まれたとのことだった。息子さんの写真を3枚見せてくれた。

  カナダ人の二人は退職しているのだが、奥さんは小学校の先生だったらしい。そこでそっと聞いてみた。「ハワイの現地人の英語はどうですか?」と。すると彼女は手を横に振って「テストをしたら×ですよ」とジェスチャー入りで答えてくれた。

迎えの車を待つ間プールサイドで一休み。

 例えば、世界のいろんな国の人達が英語を使うが、母国語にかなり影響を受けているなあと予てから私は思っている。ドイツ人の英語は、骨太の英語に聞こえるし、フィリピン人の英語は、また違う。ハワイの原住民の英語もまたしかりである。

 たぶん、日本人の英語は、アメリカ人やイギリス人が聞いたら、日本語訛りの英語だと思う。世界にはいろんな英語があるということだ。日本語だって、東北と沖縄では大きな違いがある。関西の言葉も独特だ。

  午前11時45分頃、ホノルルを発って日本へ向かった。雲の上を静かに走っている。日付変更線を越え、8時間半ほどで成田空港に着いた。そして、午後5時55分成田発小松行きの飛行機に乗り午後7時過ぎに小松空港へ着いた。

ホノルル空港ではフラダンスで観光客を迎えたり、送ったり。

 そして、小松で荷物を受け取り、駐車場に止めてあった自家用車で自宅へ戻った。ポストには、新聞がたくさん詰まっていた。今日の新聞だけを読んで風呂に入った。

 南国ハワイの風景と未だ雪の残る勝山では大きな違いがある。ここ数日間は別世界にいたようだった。現実に戻った感じがした。時々は、命の洗濯も必要だと思った。

(日記 午前中は、子育てマイスターとして新聞の原稿を書いた。午後は、家の前の雪囲いを外した。いよいよ本格的な春がやってくるという感じがした。午後7時半から春駒太鼓の練習。途中で少しだけ、フラダンスの練習も行った。)

帰りに乗るANA野飛行機(ホノルル空港にて)。

成田から小松まで乗った小型機(小松空港にて)。

 
 

ハワイ旅行記 五日目 ハワイ王朝最後の舞台となったイオラニ宮殿

20 3月

ハワイの歴史探訪
  最終日は、再びハワイの名所旧跡を巡りたいということで選んだのがイオラニ宮殿だ。朝一にこの宮殿を見学しようと思って、トローリーバスのレッド路線で出かけた。午前9時過ぎに宮殿へ到着した。

アメリカ合衆国唯一の王宮であるイオラニ宮殿の前で。

 チケットを求めなければならないと思って、切符売り場へ行くと、日本語ツアーの切符を買わされた。結果的にはよかったのだが。しかし、日本語ツアーは、午前11時半から始まるという。

 2時間がもったいないので、レッド路線のトロリーで中心市街地へ戻った。そしてワイキキショッピングプラザのフラダンス教室をのぞいた。その後、ショッピングプラザを歩いていると、アロハシャツが目に入った。ここで、夫婦揃いのアロハシャツを買った。

 そして、チケットを持っているイオラニ宮殿へ戻るためには10時45分のバスに乗らなければならないと、バス停を探したが見つからない。通りを歩き回ってもどうしてもバス停が見つからない。45分が近づいている。もう間に合わないと思ったとき、やっと見つけることが出来た。

  店へ入るとき、エスカレーターで入ったので、出るときもエスカレーターで出たが、90度方角が間違っていたのだ。幸いバスも少し遅れたので、イオラニ宮殿へは、少し時間前に到着することが出来た。

イオラニ宮殿
 イオラニ宮殿は、カメハメハ大王がハワイ諸島を統一してから約100年間続いたハワイ王朝最後の舞台なのだという。宮殿に入る前に、床に傷がつくというので、入館者は全員靴の上からカバーを掛けて入場した。

カメハメハ大王の銅像の前で。

言おう  1階中央の大広間へ入って日本語ガイドの説明を聞いた。壁の両側には、ハワイ王朝の王や女王の肖像画が掛けられていた。ハワイ王朝は、外国人の移入により、大きく影響を受けた国家であるように思う。

  最終的には、アメリカによって準州になり、最後には50番目の州になったようだ。この間の経緯は、何が真実か分からないが、説明を聞いていると、きわめて政治的なものであったように思われる。

  特に、ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニは、アメリカ寄りの政府によって死刑を宣告されたが、世論に配慮して8ヶ月間二階の寝室に幽閉されたという。死刑の理由は、アメリカ寄りの人間の言いがかりに聞こえなくもない。

  幸い彼女は音楽好きであったので、歌を作ることによって自分を慰めたという。相当数の曲を作ったらしい。その一つが、「ア

ワイキキ海岸で。

ロハオエ」だという。こうした背景を全く知らずに、私達は、彼女の歌を聴いていたことになる。

 「アロハオエ」について、ウィキペディアには「クーデターにより王位を追われ、支持者の多くが投獄され、自らも反逆罪の汚名を着せられてイオラニ宮殿に幽閉された女王が、この歌に滅びゆく祖国の悲哀を重ね合わせ、国民への感謝と惜別、あるいは再決起や支持を求める思いを込めていたであろうことは想像に難くない。」とある。

  また、ハワイは日本と親善協定を結び、外交関係が樹立された後、明治元年には民間の移民が始まったのだという。宮殿には明治天皇が送った勲章も展示されていた。今でも、ハワイには日系人が多いのだという。

 話は前後するが、欧米人が入国し始めた頃、病気も一緒にハワイに伝わり、原住民の人口が激減したのだという。小競り合

ワイキキ海岸で。

いをしながらも、島同士で仲良く暮らしていた原住民の生活を一変させたのは、経済的な理由で入国して外国人ではなかったのだろうか。

 ハワイがアメリカの50番目の州になるまでの歴史は、日本人の私達には簡単に理解できるものではないが、きわめて政治的な力や武力によって為されたように思う。

ハワイで初泳ぎ
  午後1時過ぎに、イオラニ宮殿の見学を終えて、再び、ワイキキトロリーのレッド線に乗っ手ホテルへ戻り、遅い昼食。その後、水着に着替えてワイキキ海岸へ。遠浅の海だった。海水はとてもきれいで泳ぎはに適していると思った。

 風が吹くと泳ぎには寒く感じるが、海の中に入ってしまうと、思っていたよりも水は温かかった。遠浅でほどよい波が来ているので素人のサーフィンには向いているように思えた。

童心に返ってハワイの海を楽しみました。

 風景は、旅行パンフレットに出ているように美しい。きれいな砂と海水、建ち並ぶ高層のホテル群、青い空とぽっかり浮かぶ白い雲、のんびりと身体を焼いている人達、サーフィンをする若者達、カラフルなヨット……、まさに絵になる風景だ。

 夜は、ホテルのクリエーション・ディナーショーを申し込んだ。食事の後、ハワイ音楽のバンド演奏が始まり、フラダンスなどが始まった。そして、本番のショー。重低音の音楽が響き渡り、照明の中に、ハワイの歴史を絡めたショーが始まった。しかし、本番のショーは著作権の関係などから撮影禁止であった。

 実質的には、今日が最後のハワイ旅行のようなものだ。部屋へ戻ってから、荷物を整理した。明日は、いよいよ帰国だから。まるで別世界の数日だったように思う。

ディナーショーの一場面。この部分は撮影可だった。

(日記 午前中は、家内と二人で創作紙芝居『白山平泉寺物語』の練習。午後2時から市立図書館で本番。ギターの音楽入りで平泉寺の起こりから一揆による焼失、そして再興、江戸幕府との関係、明治の神仏分離令により神社に衣替えするまでを約40分の紙芝居にまとめて演じた。一つのことを為し終えた感じだった。ここ数日かなり疲れた。)

前座のショーの最後の場面。

本番のショーの終了直後に入場者を送り出す出演者の皆さん。

 

図書館で紙芝居『白山平泉寺物語』を演ずる私と妻春美。

 
 

とろハワイ旅行記 四日目 街中散策

19 3月

海とフラダンス
  今日は、特別に予定を組まずに、ハワイのあちこちを散策すると決めた。ホテルを出て先ず浜辺を散歩。ホテルから100mちょっとで砂浜だ。空は青く、南国の木々が風になびいている。

朝の散歩。

  日本とは全く異なる景色だ。街中は南国の木々でいっぱいだ。どの木もみんな大きい。海辺や街中を散策した後、ピンクのトローリーで今日も、ハワイ最大のショッピングセンター『アラモアナ センター』へ出かけた。全ての店を見ることは出来ない。

 センターステージでは、時々ショウをやっている。この日は、フラダンスをやっていた。地元の高齢者が絶妙な合いの手を入れていた。楽しいひとときを過ごすことが出来た。

  このセンターは、観光客も集まるが、地元の人達も買い物に使うのだ。地元のスーパーマーケットへ出かけた。日本と同じようにいろんなものが売っている。特にイチゴが安かった。

 日本のイチゴ2パックで5ドルと書いてあった。一般の価格と会員用の価格が書いてあった。観光客

地元のスーパーマーケット。イチゴをたくさん食べた。

も電話番号を伝えれば会員価格で買えるのだ。今回の滞在中、6パック買った。

 その後、ホテル近くへ戻り、海辺を散歩した。砂地を裸足で歩くと歩いた。とても気持ちがよかった。その後、ホテル近くのファーマーズマーケットへ出かけ、フルーツやパンを買った。

 あちこち歩いているうちに夜になった。夜のハワイはきれいだ。椰子の木などに電飾の飾り付けがしてあり、たいまつのようにガスの出るトーチが炎を揺らしている。異国情緒にひたることが出来る。

 今日は、当てもなくハワイをぶらついた一日だった。ハワイの天候はいつも雲が流れて晴れたり曇ったりしている。今は雨期らしいが、太陽は顔を出したり、雲に隠れたりしている。ゆったりと過ごした一日だった。

アラモアナセンターのセンターステージで行われたフラダンス。

(日記 終日、明日演ずる『白山平泉寺物語』の追加の絵を描いた。午後7時半からオカリナ教室。午後9時過ぎに帰宅して脚本をチェックした。明日の紙芝居はうまくいくだろうか。)

ハワイではあちこちで無料のフラダンスを見ることが出来るのでありがたい。

あちこちに生えている大きな木。育ちがよいのであろうか。

何度か出向いたホテル近くのファーマーズマーケット。

イルミネーションとゆらゆら揺れる炎がきれいだった。

ホテル近くの露天商。風車を売っている。毎日顔を合わせるので仲良くなった。

夜の町の散策も楽しい。大道芸人がいろんなパフォーマンスを見せてくれる。

至る所に緑があるのは素晴らしい。雪が降らないので、木々は枝振りがよく大きい。