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Archive for the ‘未分類’ Category

青春時代がよみがえる……軽音楽部のOB会に向けて

13 5月

初対面の後輩
  10月に、福井大学の軽音楽同好会のOB会が浜松で開かれることになっている。もちろん私も参加するつもりだ。私は、軽音楽同好会の創立メンバーであり、先輩は1学年上にいるだけである。

  というのも、工学部を中心にバンドを組んでいた2年生と教育学部を中心にバンドを組もうとしたしていた私達1年生がいっしょになって軽音楽同好会を創立したので、私は、2代目のメンバーであり、先輩といっしょのバンドでドラムを担当していたのである。

  今日は、2学年下のKさんと4学年下のSさんが私の事務所へやって来た。主な用件は、OB会に即席のバンドを組んで演奏しようということだった。出席確認時のアンケートに、「演奏を希望しますか」という項目があった。

  私は、演歌を作っているが、当日それらを演奏することはできないので「バンド演奏は希望しない」とメールに書いておいた。しかし、幹事のKさんが「何かやりましょう」ということで、相談にきたのだ。

  今のところ、福井や金沢にいるOBを中心に演奏しようということになった。ハワイアンを2、3曲、ボサノバやジャスかロック調の曲を2曲ほど演奏しようということで話がまとまった。

  今日来た幹事のKさんは、ギターを弾くという。彼がいなかったらOB会はできないだろうと思うほど、あちこちへ電話をかけてOB会を楽しいものにしようとしている。ありがたいことだ。

  4学年下のSさんは、春江の住人だ。和太鼓グループで篠笛を吹いている。そして、今、村の民謡を作ろうとしているとのことだった。私と同じではないか。私の作ったいろんな民謡のCDをプレゼントした。

  それらを聴いて、CD化の応援をしてほしいということだった。もちろんボランティアでやらせてもらいますと約束した。Sさんに「フルートをやったら」と二人で勧めた。少しその気になったようだ。中古のフルートを探さなくっちゃ。

楽しく語り合った軽音楽同好会のOB。左は、現在和太鼓グループで篠笛を吹いているSさん、右は幹事のKさん。

  彼らは、楽器を持ってきたので、私といっしょに合わせてみた。とても楽しい時間だった。いろんな話が出た。OB会当日は、3時から6時までが演奏会。そして、宴会が始まるという。さすが軽音楽同好会だと思った。

  1時半から5時半頃まで私の事務所で彼らと語り合った。楽器があるので話は尽きなかった。Sさんは初対面であったが、同じ部のOBということで親しくなれた。

  浜松で10月に行われるOB会までには、時々集まって練習し、仲間と楽しいOB会にしたいと思う。久々にバンドをやるなんて夢のようだ。わくわくする。

(日記:昨晩は医大で泊まった。朝、バナナを食べて帰宅。自宅で朝食を食べた。その後、事務所の掃除と楽器の練習。午後1時半に福井大学系音楽部の後輩のKさんとSさんがやってくる。10月のOB会の相談などをした。途中で、楽器の練習もした。最後に、そば屋へ行って別れた。とても楽しい時間を持つことができた。)

 
 

今こそ望まれる「エリート」の出現

12 5月

真の「エリート」不足の日本
  「エリート」という言葉が曖昧になっている。現在は、単に学力試験で成績がよかったり、学歴がよい者に対して「エリート」という言葉を使っている場合が多い。。

  エリートの本当に意味は、ラテン語からきているようだ。「神に選ばれた者」すなわち「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」を意味する。

  自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くすということに対する価値を認めることが少なくなってきているのではなかろうか。

  とにかく、ほとんどの人が、「自己中心」的である。政治家の多くは、国家のためというよりは、先ず自分のため、そして、次は党のために行動をしているように思われる。

  学者もまた、そのような人が少なくない。「御用学者」といわれるたぐいの人が多い。それと、同時に、無責任な「評論家」的な発言をする人のなんと多いことか。

原発に対して誰が一番安全を叫んでいたか
  今回の大震災により引き起こされた原発事故に対して、こんなにも沢山の原子力関係の研究者がいたのかと驚くぐらい、連日。テレビで自説を述べている。

  その中で、「安全です」という言葉が多くの学者の口から述べられている。どうも、これまでのいきさつを考えると、「安全である」のではなく、「安全であるべきだ」と先に結論があって、それにあわせて発言しているように思われる。

  「原発が、安全である」と、政治家も、電力会社も、学者も、これまで一般国民に対して説得してきたようだが、素人の私が考えても、まだまだ制御不能のエネルギーでないかと思われる。

  というのも、これまで大小様々な事故がそれぞれの原発で頻発している。しかし、原発の危うさを声高に言えない雰囲気が日本にはあるようだ。

  勇気を持って、「原発の真の姿を国民に示すことのできる学者や政治家が出てくる」ことを願う。それから、危険な原発で働く人達の、実態はどうだろうか。健康に問題がないのだろうか。

  「七次請け」、「八次請け」という言葉があるように、かなり金になる職場なのだろうか。金になるということは、危険であることの裏返しではないのか。単純に批判できないが、産業のない地区に原発が集中することだけは避けなければならない。

  バランスある日本を築くためにも、真のエリートが現れることを願う。今のように、自己中心的な人間が増え、快適さ、金、効率だけを求めて、時の政府に迎合するような人達が増えれば、日本ノ行く末が心配だ。

  他人のために身体を張って行動できる人間に価値を認めるような世の中をつくらなければならないと思う。原発事故で、全ての国民の真価が問われているように思う。

(日記:昨日病院で泊まった。病院の付添用のベッドは幅が5、60cm位だろうか。寝返りも満足にできない。私は、二日間だけ病院に泊まるつもりだ。 しかし、東日本大震災で被災して避難している人達は、2ヶ月を過ぎた。想像を絶する苦労を強いられておられるのだろう。肉親のこと、自宅、職場などを考えると、明日が見えない人が多いだろう。朝食を済ませて一度自宅へ帰りたいと思ったが、、食堂がなかなか開かないので、自宅へ帰って朝食をとることにした。その後、家庭菜園の支柱立て、植え替えなどの作業を行った。午後は、短時間、バンドのカラオケ作り。そして、夕方再び、病院へ戻った。)

 

 
 

文化の薫り高いまち

11 5月

病室にて
  午前5時55分起床、7時半頃自宅を出発して、福井医大病院へ。今日は、私の妻の手術の日だ。午前8時過ぎに病室へ到着。

  午前8時半に二人の医師が部屋へ到着。「よろしくお願いします」と挨拶。体格のよいK医師。スマートな若手のN医師。

  3階の手術室へ入る直前に、N医師から手術の時間などの説明を受ける。お二人に全てをゆだねて、後は手術の成功を祈るばかり。

  そして病室で待つこと3時間。手術を終え、麻酔も覚めて妻は部屋へ戻る。K医師から、レントゲン写真を見ながら、説明を受ける。2,3日は個室で過ごすことになる。

  待っている間に、持参した新潮新書『知的余生の方法(渡部昇一:著)』を読んで待つ。

文芸誌『山桐』を見つけて
  気分転換に待合室へ出向くと、そこには何冊かの週刊誌や漫画などが置かれていた。それらの中から、丸岡五徳会・文芸委員会発行の文芸誌『山桐(2009.9)』を見つける。

 216ページの充実した内容のある文芸誌だった。「詩」、「短歌」、「俳句」、「川柳」、「エッセイ」、「童話」、「小説」、「ドキュメント」などが掲載されている。

  短歌や俳句、川柳などの冊子は、どこでもお目にかかれるが、これだけの総合的名文芸誌となると“まちの文化レベル”が高くないと発行できないだろう。さすがは、「一筆啓上」や「子供歌舞伎」など、文化的な活動の盛んな丸岡だなあと思う。

  この中で、私の知人のWさんが小説「雨の日のスケッチブック」を書いていた。実は、この小説はWさんからすでに送られて読んではいたが、いい小説だと思う。

  もし、私に映画を作る才能があったら、映像化してみたいと思うような魅力ある作品だ。この小説以外にも、Wさんから送っていただいた小説がある。

  ほかにも興味あるエッセイがあった。歴史探訪ー『本願寺は、なぜ西東に分裂したか』も興味ある読み物だった。

 「浄土真宗は、親鸞聖人を開祖とし、親鸞聖人の著書「教行信証」を根本にすえた宗旨で、・・・・。中でも、「俗称西本願寺」と「俗称東本願寺」は国内最大の教団であるが、実情はやることなすこと、ことごとく対立し、いがみ合い、反目しあっている。・・・。」

 上記のような書き出しで、詳しく書かれている。そうだったのかと納得できる内容であった。他にも、興味ある内容が並んでいて、このような雑誌を作るまちはすばらしいと思った。

  Wさんは私より1歳年上で、かつて同じ職場に在籍したことがあり、当時から詩を書くことが得意であった。Wさんの作詞『森のあるまち』に私が曲をつけて、中学生に連合音楽会で合唱して貰ったことがある。

  昨年もお会いして、是非とも歌を作りましょうということで意気投合したばかりだ。Wさんは今小説を書きながら、家庭菜園などをやっているという。今年中には、二人で歌を作りたいと思っている。

    このブログ部を書いている横で、妻が、たくさんの機器や管につながれて寝息を立てている。早く直って普通の生活に戻りたい。

ここ2、3日の雨で川幅いっぱいに増水した九頭竜川。中州も川になっている。(旧小舟渡橋付近)

(日記:終日、病室にいる。完全看護で付き添いなど必要ないが、話し相手ぐらいはできるだろうと、今日明日は病院でとまることに決めた。昼食も夕食も病院の食堂だ。待っている間は、売店で買った『文芸春秋』や持参した本を読んでいる。ゴールデンウイーク中はほとんど雨が降らなかった。しかし、ここ2、3日は雨がよく降る。九頭竜川も増水していた。)

 
 

災害から2ヶ月……田舎が都会を支えている

10 5月

描きがたい将来のビジョン
  まもなく東日本大震災から2ヶ月が経とうとしている。地震と津波、そして原発事故が襲い、何をどうすればよいのか、将来像が描けないでいる。

  被災者の状況も様々である。一人一人、置かれた立場が異なる。家を流されたり、肉親を亡くした人もいれば、家もさほど震災の影響を受けずに、家族も犠牲にならなかったが、放射能の汚染地域にあるために避難しなければならない人もいる。

  世界地図で見る限りは、日本はあまりに小さい。そのために、外国の人たちから見れば、福島も東京も隣接しているように見えるかもしれない。日本全体が汚染されているように思われている。

  原発の事故は、農業や漁業、そして、工場にも多大な影響を与えている。風評被害は、予想を超えて日本全体に大きな影響を与えている。

地方が都会を支えている
  税金の配分をはじめ、議員の定数も人口に比例させよという意見が根強くある。しかし、今回の大震災でわかったことは、地方が都会を支えているという構造だ。

  農産物や畜産物、魚介類などの食料も、美しい水も空気も、田舎の大自然が産み出している。そして、最もエネルギーを使う都会のために、地方に原発があってエネルギーを供給している。そして、事故の被害は地方に集中している。

  自動車や電化製品などの部品も地方の工場が多く供給しているのである。そのために、大手の自動車会社は車の生産を休んだり、フル操業ができないでいる。

  今回の大震災によって、地方が都会を支えているんだということを多くの人たちが認識したのではないか。都会も田舎もどちらも大切なんだということを、若い人達も自覚してほしいと思う。

  また、原発事故から見えてくるのは、まちを支える産業がないばかりに、原発を誘致せざるを得なかった地区が少なくないということだ。立派な学校も、図書館も、図書館も、道路も、雇用も、原発頼みという地区では反原発を声高に唱えることができないでいる。

  以前から、「そんなに原発が安全だというんなら新宿に原発を作ったらどうか」というようなことが言われた時期もある。とにかく、今は、「オールジャパン」でこの難局を乗り越えてほしいし、そのために微々たることでも自分にできることはないかを考えて実行したい。

(日記:午前中、久しぶりに事務所で「数学のホームページ」作り。午後、バンドのカラオケ作り。3時過ぎに、家内の入院している病院へ出向き、明日手術をして下さる医師から事前の説明を受けた。そして、署名した。明日の妻の手術の成功を祈りたい。)

 
 

今日から一人暮らし

09 5月

家事の大変さを味わう
  家内が関節の手術で入院することになった。約3週間の間、自分のことは全て自分でしなければならない。3食を作り、食べ、食器を洗わなければならない。最低でも、二日に一回は買い出しに行かなければならないだろう。

  洗濯もしなければならない。日頃の家内の苦労が身に染みるだろう。これまでの経験から、使った食器を食後すぐに洗わないと食器が増えて何かと扱いにくい。使う食器はなるべく少ない方がよいだろう。

  時期が時期だけに、「食中毒に気をつけて」と家内から何度も言われている。時々まな板の消毒もしなければならないだろう。無駄が出ないように調理するのも簡単ではない。食材の量が多いと、使い切らないうちに変質してしまう可能性があるからだ。

  洗濯は、全自動だから、洗剤さえ指示通りに入れれば脱水までは何もしなくてもよい。しかし、干したり、干したものを取り入れたりするのも結構煩わしい。

 とにかくやるしかない。メールで連絡を取り合い、自宅と病院を行き来しながら3週間を過ごしたい。そして、自由時間を少しでも多くとり、家庭菜園の作業や自分のしたいことをやってこの期間を乗り切りたい。

(日記:部屋の整理と楽譜作り。午前11時少し前に、軽い昼食。北部中学校へ出かけて選択音楽『和太鼓の授業』。帰宅後、入院する家内を連れて病院へ。帰宅してから、今夜のオカリナ教室の楽譜整理。早速夕食を準備して食べ、食器を洗って、明日のために炊飯器をセット。午後7時半よりオカリナ教室。何となく慌ただしい一日だった。)

 
 

GW総括

08 5月

大半は家庭菜園の準備に費やす
  今年のGWは何をしたのだろうか?振り返ってみると、家庭菜園関係の作業は一番多かったように思う。4月29日は熊本で家内の姉の次男の結婚式。4月30日は福岡で私の妹とその娘に会う。

  5月1日は、数学のホームページ作り。5月2日は、円形の堆肥枠を組み立て、軽トラックで六呂師へ行き、完熟堆肥を買いに行く。3日は、家庭菜園に苗を植える準備など。午後は紙芝居『平泉寺物語』の絵の整理。

 4日、5日、6日は、日曜大工。事務所の裏の壁面に、家庭菜園用の棚を作る。7日は、終日「農事組合法人かたせ」の田植えの補助員を務める。

  そして、今日も、朝から午後7時まで、日曜大工。家庭菜園用の戸棚作り。今日は、棚や側面に板を張った。単純な作業であったが、時間はかなりかかってしまった。ようやく95%完成した。

田舎の人間のGWは百姓の血が騒ぐ
  退職したら、いつが休日でいつが出勤日という区別がない。GWは娘や孫達も遊びに来たが、私達夫婦には農作業が一番似合う。一番落ち着く。

家庭菜園用の戸棚の最終工程、最上段に棚板をつけ、側面にも板を張る。

  GW期間中に、田植えの手伝いができてよかった。今年は、法人の苗運びもした。今度の日曜日は、コシヒカリの田植え作業があり、再び、補助員として出ることになっている。

  この期間中に、種々の苗を植え、種をまき、畑の準備をしておけば、後は、それぞれの作物の生長を見守ればよいのだ。6月頃から11月頃まで、種々の収穫物が得られる。

  注意すべきは、病気と害虫による被害だ。この対応が、家庭菜園では一番大変だ。このGWで、植えるべきものは家内と二人でほとんど植えてしまった。

  また、来週からは、本来のペースに戻って、「数学のホームぺージ」作りを中心に、紙芝居作り、童話創作、歌作りなどの創作活動も再開したい。自分としては、家庭菜園中心のGWであったがとても充実していたと思う。

(日記:朝から晩まで、日曜大工。家庭菜園用の戸棚作り。ようやく95%完成した。)

 
 

田植え補助員として

07 5月

今日のオペレーターのTさん(猪野地区の田んぼ)。 

  法人の田植えに、私は2度補助員として出ることになっている。1度目は6日であったが、田ごしらえができていないので、6日は中止になった。そして昨日、今日出てもらえないかと電話があった。

  朝8時に法人の農舎に軽トラで出かけた。私の軽トラは、肥料、殺虫剤、除草剤、苗箱を洗うための水中ポンプなどを運ぶ係となった。

今日の田植え作業で補助員を務めた4人のうちの3人(右から50歳代、60歳代:私、70歳代)

  今日は、先ず、隣接する毛屋地区と猪野地区の田んぼに苗を植える日だ。この頃、農家の人たちも高齢化して、稲作が困難である。そこで、私たちの法人に田植えや稲刈りを依頼してくるのだ。

  隣の地区からこうした作業を引き受けることが少しずつ増えている。今や、農業は非常に困難な立場に置かれている。若い人たちが取り組むには、労働時間に対してその対価が見合っていないからだ。

  最近の農業は機械化されているので、それらを個人で所有することは難しい。そこで集団になることによって国の補助金を得て大型機械を購入したというわけである。

  しかし、これらの大型機械を動かすオペレーターが必要である。今のところ、私の村では、オペレーターは確保されている。また全体を取り仕切るリーダーもいる。

  後は、これらの人たちの作業を補助する者がいればそれでよい。私のように退職した者は、こうした補助員を進んでしなければならないと思っている。

  もちろん、時給なにがしかで日当が出るので、単なる奉仕作業とは異なるのである。しかしながら、太陽の下で、8時間肉体労働をすることは60歳を過ぎるとかなり過酷である。

  私自身は、これまで事務的な仕事しかしてこなかったので、肉体的な仕事は多少苦しくても気分のよいものである。

  午前8時から午後5時まで、昼食休憩を除いてずっと太陽の下にいて、田植え機に苗、肥料、除草剤、殺虫剤などを補給し続けた。

  それはちょうどレーシングカーがピットインして10数秒でタイヤ交換をしたり燃料補給をするようなものである。このような作業を一日続けると、疲れも出るが腕力も鍛えられるだろうなと思った。

  午後5時、今日の予定の作業が全て終わった。使った苗場この数、肥料の数、作業に出た者の労働時間などを作業日誌に書いて帰宅した。

  今日は、ビールを飲んで焼き鳥でもと思い、シャワーをして家内と二人で焼き鳥屋へ出かけた。時には肉体労働も楽しいものだ。

(日記:終日、法人の田植えの補助員を務める。気持ちよく肉体労働ができた。夜、家内と二人で焼き鳥屋へ。昨日横浜の息子に精米して米を送ったが、そのお礼の電話が家内の所へあった。)

 
 

久々に「片瀬豊年ばやし」練習開始

06 5月

今年が勝負
  昨年の9月に、「片瀬豊年ばやし」は生まれた。片瀬地区におよそ100年前から伝わる銭太鼓を活かしながら、全く新しい片瀬の銭太鼓を誕生させたいという願いを多くの区民が持っていたのだ。

  というのは、我が片瀬地区に伝わる銭太鼓は、島根県の「安来節」にあわせて銭の入ったバチを振るもので、地区の誰かが明治の末期にこの地に伝えた芸能であったからだ。

  今年は、市のエコミュージアムの補助金をいただいているので、みんな力が入っている。なんとか、衣装は作れるのではないかと思っている。

   練習の合間に、そろいの法被を作ることを決めた。襟と背中に文字を入れることを決めた。私個人は、この「片瀬豊年ばやし」を、単なる郷土芸能であるとは思っていない。

  後継者のいない村の農業を守るために作った「農事法人かたせ」のテーマソングであるとも思っている。歌の文句に、「イモ(里芋)とショウガとうまい米」という歌詞を入れた。

  この三つは、昔からの片瀬の特産物である。これらの初出荷の時、あるいは大売り出しの時、「片瀬ブランド」の宣伝の時などに、「片瀬豊年ばやし」を披露したらどうかと思っている。

  いわば、「片瀬豊年ばやし」は、「農事法人かたせ」のテーマソングであり、コマーシャルソングであり、区民がまとまるための「区民の歌」であり、「区民の芸能」でもあると思っている。

  今年、新しい農舎が完成した。我が片瀬は、自前で米を乾燥し、片瀬ブランドとして売り出すつもりでいる。昨年までは、全てJAにお願いし、乾燥や臼すりをお願いしてきたのであるが、少しずつ独立しようとしている。

  今年はまだ、大々的に一般販売は無理かもしれないが、少しずつその方向へ進もうとしている。「片瀬豊年ばやし」は「農事法人かたせ」と一体となって発展していくことを願う。

屋根に波トタンを張れば雨が降っても大丈夫。完成は誓い。

(日記:午前中は、最初に米かちや雪害の写真の印刷などを行い、その後、家庭菜園の整理棚に使う「波トタン」や「水切り」などをホームセンターで購入し、作業を開始。午後も、作業を継続。整理戸棚のだいたいの形を作り、屋根を仕上げた。後は、棚板を張れば完成だ。予想以上に時間がかかったが、この間、ラジオを聞いていたので、退屈はしなかった。むしろ楽しかった。今日は6時で作業終了。午後、7時半から「片瀬豊年ばやし」の練習。)

 
 

大人の童話(?)があってもいいのでは

05 5月

この頃童話ブームか
  今日も終日家庭菜園用の物置作り。朝出て行って、昼食後休むことなく作業継続。終わったのは午後7時過ぎ。ようやく、形ができた。

  作業中、ずっとNHKのラジオを聞いていた。童話に関する放送が非常に多かった。絵本作家、画家、その他様々な人たちが童話について語り、童話の読み聞かせまであった。

  心を打つ童話も多かった。童話は3度読むのだという。放送では、確か、「子供時代」、「そして親になって子供のために」、「大人になって自分のために」の3度ではなかったかと思う。

  それぞれ、生きてきた経験の違いから、同じ童話でも、色々感ずるところが異なるのだろう。しかし、最初から、大人が読む童話(あるいは童話形式の本)があってもいいのではなきかと思う。

  童話の力ってすごいなあとこの頃思う。大震災と共にそれらが引き起こした原発事故など未曾有の大災害が東日本を襲い、日本人に様々な面で生き方を考え直す機会を与えてくれた。

  私も、生き方について反省するところが少なくなかった。そんな中で一つの童話ストーリーを思いついた。これは大人対象のものだ。

・・・・・・・・・・・  (仮称)「恐竜を飼った男」~大人の童話のあらすじ~  ・・・・・・・・・・・

  ある王国に、運良く小金持ちになった男がいた。彼はもっともっとお金を儲けたいといいうことで島を手に入れた。そして、周囲の反対を押し切ってその島で恐竜を飼うことに決めた。この恐竜は、アフリカの奥地に住んでいるトカゲを大きくしたような形の動物だった。

  ある学者によれば、核実験の放射能の影響を受けて、トカゲが突然変異を起こして巨大化したものではないかということだった。手に入れた島の半分で恐竜を飼い、残りの半分との境目には頑丈な檻をつくって動物園のようにしたのだった。

  初めは怖がっていた人たちも、怖いもの見たさでこの島へやって来て、恐竜を見るようになったのだ。国内ばかりでなく、国外からも、多くの観光客がこの島へやって来るようになった。

  そのため、男はどんどんお金を手に入れることになった。そして、最初は1匹だった恐竜の数を次々と増やしていったのだった。王様も、男から税金が入るので、男の応援を惜しまなかった。これ以上恐竜を増やしたら、危険ではないかという人も少なくなかったが、王様のおかげでそうした声は無視されてしまった。反対に、王様の家来達が、「恐竜はおとなしい動物だ。たとえ暴れたとしても、頑丈な檻で囲まれているから入園者に危害を与えることはない。」と、心配する人たちの意見を無視し続けた。

  男は儲けた金を使って、どんどん恐竜を増やしていったのだった。恐竜たちは、時にはえさを奪い合ったり、噛みつき合ったりした。見学者にはそうした迫力ある姿は大好評だった。そのために、島への入園者は増える一方で、男は多額の入園料を手に入れ、王様も多額の税金を手に入れることになり、男も王様も、笑いが止まらなかった。おかげで国民も豊かな生活を手に入れることができるようになった。

  あるとき、突然大きな地震が起こり、暴れ出した恐竜たちは頑丈な檻の一角を壊し、管理棟を襲撃し、手のつけられない状態になった。想定できない事態が次々と起こった。おまけに、海へ逃げ出した恐竜の何匹かが王国に上陸し、軍隊が出動する羽目になった。しかい、軍隊の持っている武器では恐竜達を押さえることはできなかった。王宮にも、恐竜たちはなだれ込み、次から次へと建物を破壊し始めた。

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  これは頭の中で考えた大人の童話であって、活字にしたり発表したりすることはできない。今の、日本の状況は、別の視点で見ると、このような状況かなと思いながら、頭で考えた次第。

  一日も早く、大震災の復興と、原発の終息を願いたい。今回の大震災を機会に、多くの人たちが自分を省みる機会になったと思う。豊かさを「モノ」や「快適さ」のみに求めるのではなく、心の豊かさをも求めなければ、人は本当の幸せを手に入れることができないのではないか。

事務所の後ろの壁面で制作中の物置。白っぽい材料はホームセンターで購入した材木。その他は全て廃材。

(日記:午前、午後とも、家庭菜園の物置作り。形だけはできたので明日は仕上げをしたい。手は日曜大工、頭はラジオの一日だった。特に、絵本や童話についていろんな話を聞くことができた。夜、末娘が、餃子を沢山作ってくれた。ビールと餃子。今日も充実した一日だった。)

 
 

終日、日曜大工

04 5月

家庭菜園用物置第二弾
  退職してから、それまでより真面目に家庭菜園作業に取り組むようになった。様々な家庭菜園用の用具が増えて置き場に困るようになった。

事務所の裏で物置作りの作業開始。

  一つは、大工さんに作って貰った物置があったが、中が狭くなったので、昨年は戸棚を作った。然し、それでも狭くなったので、物置を作ることに決めた。

  事務所の建物の裏側の壁面に幅3.6m、奥行き65cm、高さ1.8mの物置を作ることにした。材料は、屋根を直すときに出た廃材を中心に、一部はホームセンターで購入して作業を始めた。

組み立てには、全てねじ釘を使うことにしている。理由は、不要になればいつでも簡単に解体できるからだ。

  地面のアスファルト舗装に傾斜があるために、その都度“水を見て”水平を確認しながら作業を続けたために、思いの外、時間がかかった。

  午前中から作業を始めて、午後7時過ぎまで、昼食時以外はノンストップで作業を続けたが、予定の半分しか進まなかった。

  この調子では、明日も作業を続行だ。しかし、ラジオを聞きながら作業をしているので、とても楽しい。ラジオで、色々刺激を受けることがある。

  最近、「いのち」についてや、童話についての話がよく横放送されるが、とても興味深い。今や、作業中ラジオは欠かせないものになっている。

  「モノ」を作ることはとても楽しい。あれこれ図面を考えて、計算して、少しずつ進めていくことは、何にも増して楽しい作業だ。明日も、晴れるといいなあと思う。日曜大工ができるから。

(日記:終日、日曜大工。事務所裏に壁面に物置を作るために、作業に取りかかったが、半分しかできなかった。帰宅したら、午後7時を回っていた。それでも、充実した一日だった。)