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和太鼓『野良打ち』について

25 7月

神社の太鼓 かつては、どこの神社でも秋祭りなどには長胴太鼓が境内の片隅に置かれていた。そして、太鼓の好きな者や子供達が太鼓を叩いていた。時には地元のおじさん達も楽しそうに太鼓を楽しんでいたことを思い出す。

個人打ち(野良打ち)と団体打ち 太鼓の楽しみ方もいろいろである。かつては、地元の神社で大人達が楽しそうに叩く太鼓を見ていた子供達が、
「いつかは自分のあのように、かっこよく太鼓を叩きたいものだ」
と密かに思い、見よう見まねで太鼓を練習したものである。町の中心にある神明神社でも境内の片隅に太鼓が置かれ、太鼓好きがその周りに集まり、太鼓を見たり、自分で叩いたりして楽しんだものである。

こうした原則二人で叩く『野良打ち』は、今や各地の神社からすっかり影を潜めてしまった。左義長ばやしを別にすれば、太鼓と言えば団体打ちが主流になってしまった。そして、神社で太鼓の音を聞くことはなくなってしまった。太鼓と言えば、部活動で練習したり、大きな会場でイベントの時に楽しむ鑑賞中心の芸になってしまった。個人でも団体でも楽しむことのできる素朴な芸であってほしいと願っている。

『勝山ふるさと祭』で“野良打ち”復活を願う 各地域で○○太鼓を創設してきた私にもその責任の一端はあると思っている。そこで今回の『勝山ふるさと祭』の芸能発表では、敢えて“団体打ち”の形をとらず、“野良打ち”を中心に太鼓の楽しさを伝えたいと思っている。
幸い、和太鼓集団「倭」に所属していたプロの和太鼓奏者・大久保哲朗さんや大日太鼓の浅井さんが主旨を理解して下さり、“野良打ち”で太鼓の楽しさを伝えて下さるとのことである。
また、中学校で大久保さんに和太鼓を教わった南部中学校の生徒さんも“野良打ち”に参加してくれるとのことである。
“野良打ち”と“団体打ち”の二つのスタイルで誰もが和太鼓を楽しむ雰囲気が生まれ、地域の祭りで太鼓の音が響き渡ることを期待したい。

 

市民の力でおもてなし

21 6月

各部門で協力者募集中 「勝山ふるさと祭」実行委員会では下記の各部門で協力者を募集しています。

『盆踊り部会』では「盆踊り大会」実施にあたり、直前に『民踊まち流し』を行います。下記の二つの部門の参加者を募集していますのでご協力のほどよろしくお願いします。

 

『勝山ふるさと祭』の最後は『盆踊り大会』で終わることになっている。その盆踊り大会に踊る曲目は、盆踊り部門のスタッフが相談して以下の5曲と決めました。

・長柄節 ・千本搗き ・勝山小唄 ・勝山ほがらか音頭 ・チャマゴン音頭

盆踊りは見よう見まねで踊ればいいのですが、それでも不安な人のために各地区毎に練習会を開催します。しかし、それらの練習会に参加できない市民の皆さんや帰省客の皆さんのために『盆踊り部会』では練習のための映像を作成し、YouTubeにアップしました。今後、練習用のDVDも作成し、団体には無料で配布する予定です。

「盆踊り大会」開催直前に「民踊まち流し」を行います。『勝山よいとこ』により会場周辺を踊りながら歩きます。『町流し踊り隊』と『まち流し伴奏隊』を募集しています。

 

 

 

『勝山ふるさと祭』開催まで2ヶ月を切る

18 6月

突然訪れた大役 正月前後に「お盆に盆踊りをやるなどして賑わいを創り出してほしい」というような依頼が市の方からあった。その後、市長以下担当部長・課長・GLなどと何度か話しながらこの大役を引き受けることにした。3月にいくらかの予算が付いて4月から始動。

祭りのコンセプト 盆踊りだけでは人は集まらない。この祭りのコンセプトは「何をやるにしても自分たちの手で市民・帰省客そして観光客をおもてなししよう」ということに決めた。「お祭り広場」を市民や帰省客の「出会いの広場」にしたいと思う。
あれこれ仲間と話し合いながら、下記のような概要を決めた。とにかく、自分たち市民の手でこの祭りを成し遂げることだ。市外の方の応援があればなお嬉しいが、安易にどこかの業者には丸投げすることだけは止めようと決意した。

祭りのテーマ 祭りのテーマはズバリ「ふるさと」である。この「ふるさと祭」を通して心暖まるふるさとのよさを出せればよいと思う。
私は“ふるさと”を次のように定義付けている。
  「ふるさと」とは
    ・家族以外に関わった人がいる
    ・我が家以外に関わった場所がある
     ところである(いずれも義務的ではない)。
 この二つを満たしている場所(ふるさと)を持っている人はそんなに多くはないと思う。学校や塾など習い事の場所と自宅との行き来、学校や習い事の先生や監督との関わりだけでは生まれた場所が「ふるさと」にはなりがたいのではないかと思っている。今や多くの人にとっては、「我が家あってふるさとなし」の状況が続いているのではなかろうか。
次世代を担う子供達には、「仲間と暗くなるまで遊んだ場所があり、心置きなく交わった仲間のいる(信頼できる大人がいる)ところ」に我が勝山がなってほしいと願う。

祭りのためのブログに 祭りが済むまで私のこのブログは『勝山ふるさと祭』のために活用しようと決めた。市民と市外を結ぶパイプになれば嬉しい。何でも気楽に書いていただきたいと思う。このブログが地域の交わりの場、市外・県外と勝山を結ぶ場所になればと思う。

『ふるさと祭』の概要

 

『じいじ達の子供時代』

25 3月

第3章 働くことは生きること
私たちの子供時代を一口で表せば、「働くこと」、「遊ぶこと」そして「食べること」ではなかっただろうか。この中の一番は「働くこと」ではなかっただろうか。
働いたから遊べる
働いたから食べられる
これが子供時代の私の体に染みついていた感覚ではなかっただろうか。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

24 3月

第2章 助け合いで成り立つ日々の生活

かつての田舎の暮らしは、何事も助け合いで成り立っていたと言っても過言ではない。その中の一つに「結」私の地区では「い」と言っていたように思う)がある。人手のほしいときにお互いが助け合う仕組みだ。また、仕事ばかりでなく、何事も隣近所の助け合いで成り立っていたのだ。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

23 3月

退職プロジェクト

私も退職後にいろいろやりたいことがある。そこでそれらを称して『退職プロジェクト』と呼んでいる。いくつかを挙げると、《音読絵本『じいじ達の子供時代』》、《高校数学参考書》、《歌作り(演歌・ポップス・ボーカロイド曲)》、《楽器練習(ウインドシンセサイザーほか)》、《盆踊りの復活》・・・・・などがある。

今日はその中の一つ『じいじ達の子供時代』の一部を紹介したい(以後、時々その一部を紹介したい)。これは大人のための音読絵本である。そのため文章は全て七五調にしてあり、拙い自作の挿絵が添えてある。リズムよく読んでいただければと思う。子供達にはじいじと孫の対談調の冊子ができればと思う。高齢者の任意症予防のための《回想療法》の一助になれば幸いである。(後日、冊子にできればと思っている)

第1章 私の生まれた頃

第1章にもいくつかの項目がありますが、その中から今回は3つだけ紹介させていただきます。(全部で10章あります)

 

 
 

ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑩

23 3月

旅行最終日~長野へ寄って帰宅
旅行最終日。北海道の釧路から始まって、札幌、旭川(動物園)、富良野、室蘭、江差、松前、函館と見学し、津軽海峡をフェリーで渡り、大間へ上陸して東方へ移動。その後十和田湖へ寄り、盛岡から宮古へ移り、ここから東北の被災地を巡って福島まで行き、最後にスパリゾートハワイアンズへ寄り、さらに、埼玉の次女の家へ寄り、長野県へ寄り帰宅したのだ。最初は日本海フェリーで小樽へ渡って始まった10日あまりの北海道・東北旅行は終わった。

「ダブルナビ」としたのは本当のカーナビと助手席に座る妻の案内(ナビ)のダブルナビで無事全行程を終えたからだ。無事帰宅できてよかったと思う。車での10日かあまりの旅行はこれで二回目だ。一回目は家族5人での北海道旅行、そして今回は、6人の孫がいての二回目の旅行だ。いずれも出発は北海道の小樽であった。

池波正太郎 真田太平記館前にて

途中で寄った次女とその息子(孫)

 
 

ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑨

23 3月

スパリゾートハワイアンズへ~福島から
北海道・東北旅行もいよいよ終盤戦。昨日までは東北の被災地を中心に巡ってきたが、今日は福島のスパリゾートハワイアンズへ。テーマパークだ。このハワイアンズができる一部始終を描いた映画『フラガール』を見て、一度は行きたいと思っていた場所だ。

この映画『フラガール』のテーマソングの楽譜を偶然ハワイの楽器屋で手に入れることができたので、よく練習して演奏会でも披露した曲だ。
また、今もハワイアンバンド(フラダンス付き)で時々やる関係もあり、ここは是非とも訪れたいところだった。フラダンスやポリネシアンダンスのショウがあり、様々なプールや温泉があり、一日遊んでも飽きのこない施設であった。孫達とも再度来てみたい施設だった。

施設内の撮影ポイントで

思わずうっとりする華麗なフラダンスショウ 1

次々と舞台に登場する華やかなダンサー達

入場者で賑わう大型室内プール

流水プールで

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑧

06 1月

越前松島へ
被災地を後にして車は越前松島へ。最初に遊覧船で日本三景の一つ松島を見る。その後、天長5年(828年)に慈覚大師が開山し、慶長14年(1609)に伊達政宗が再興した瑞巌寺を見学する。

松島見学の遊覧船乗り場

松島見学の遊覧船乗り場

 

遊覧船上から見える島々

遊覧船上から見える島々

 

瑞巌寺への参道脇の洞窟には修行の場や石仏が並んでいる。

瑞巌寺への参道脇の洞窟には修行の場や石仏が並んでいる。

 

瑞巌寺境内の銅像など

瑞巌寺境内の銅像など

 

瑞巌寺本堂

瑞巌寺本堂

 

福島へ向かう自動車道には放射能測定表示板が設置されている。道路は原発からかなり離れているが、原発に近づくにつれて数値が大きくなっていった。

福島へ向かう自動車道には放射能測定表示板が設置されている。道路は原発からかなり離れているが、原発に近づくにつれて数値が大きくなっていった。

 

自動車〃のパーキングで見た相馬野馬追の切り絵。

自動車〃のパーキングで見た相馬野馬追の切り絵。

 

 

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km ⑦

04 1月

宮城県。南三陸町 悲劇の防災庁舎
 最後まで職責を全うして亡くなられた職員の皆さん、被害に遭われた数多くの町民の皆さんのご冥福をお祈りします。
・・・・・河北新報(2011年3月18日号より)・・・・・
いまだに職員20数名が行方不明
「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」
3月11日の東日本人震災で、町民8OOO人以上が行方不明になっている同町。住民を避難させようと、最後まで庁舎に残った職員二十数人の行方もいまだに分からない。
遠藤副町長ら、最後の職員が陣取ったのは同町志津川の総合防災庁舎3階の建物、今は、赤い鉄骨が残るだけだ。
津波の第1波の襲来まで庁舎内には約30人の職員がいた。しがし、無事が確認されたのはわずが8人。遠藤副町長もその一人だった。
依然行方が分がらない職員の多くが防災担当だった。防災無線を使いぎりぎりまで住民に避難を呼び掛けた。屋上に避難してフェンスやアンテナにしがみついたが、津波の力は想像をはるかに超えていた。
階段の手すりにしがみついて一命を取り留めた佐藤徳憲総務課長(60)は、第1波の後、多くの仲間が消えていることに気付いた。「何とも言えない失望感。ただそれだけたった」(以下省略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 8月1日、宮城県の南三陸町の防災対策庁舎を訪れ、亡くなられた皆様方のご冥福をお祈りして合掌し黙祷しました。津波はこの3階建ての防災対策庁舎のさらに2m上まで達したそうです。

このとき、町職員遠藤未希さん(24)が放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握り、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
と呼びかけて多くの方々の命を救ったそうです。しかし、声の主の遠藤さんの行方は震災ご見つからなかったそうです。震災当時、私はこのニュースを知って愕然とし、言いようのない気持ちに襲われたことを昨日のように覚えています。

鉄骨がむき出しになり津波の被害の大きさを今に残す防災対策庁舎。

鉄骨がむき出しになり津波の被害の大きさを今に残す防災対策庁舎。

 

防災対策庁舎の周辺は、かつての市街地の面影はなく、復興を待っている。

防災対策庁舎の周辺は、かつての市街地の面影はなく、復興を待っている。

 

かつての市街地や農地にはこのような巨大な盛り土がいくつも見られる。

かつての市街地や農地にはこのような巨大な盛り土がいくつも見られる。

 

震災から5年余りが過ぎた今、ガレキが取り払われ、道路が整備されつつあるが、建物が建ち、まちが復興されるのはまだまだ先のようである。

震災から5年余りが過ぎた今、ガレキが取り払われ、道路が整備されつつあるが、建物が建ち、まちが復興されるのはまだまだ先のようである。

 

至る所で道路工事が行われていた。道路ができて始めて上下水道や宅地ができるのだが、簡単には工事は進まない。

至る所で道路工事が行われていた。道路ができて始めて上下水道や宅地ができるのだが、簡単には工事は進まない。

被災地を車で走らせていただいたが、復興間まだまだ先のようであると感じた。ガレキが確かに多くの町では取り除かれ、道路はでき始めてはいるが、そこに住居や商店街ができ、人が行き交うまでにはまだまだ時間がかかりそうである。
その間、子供達は大きくなり、高齢者の人たちはますます年を取り、ふるさとを離れて新しい生活を始めておられるのではなかろうか。そうでなくても、地方は少子高齢化と過疎化の波が押し寄せ、衰退の一途を辿っているだけに、被災地の方々のまちづくりの苦労は想像を絶するものがあるように思われる。こんことを忘れてはならないと肝に銘じた次第である。

 

 
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