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前を向いて歩く

27 3月

納得する時間の使い方
 「いかに過ごすか」は 一度このブログで書いたテーマだ。80歳になったのを機会にもう一度このテーマについて考えてみたい。以前、勤めを辞めるに当たって一番心配したことは、「物事に対してやる気が湧くか」ということだった。

 務めているから、あれもしたい、これれもしたいとなるのだが、勤めを辞めたら、時間がたっぷりあって、かえってやる気を失うのではと本気で心配したものだ。

 22歳から働き出して、67際まで現役だった。突然、行き場を失うことがどういうことか、本気で心配したものだ。この切り替えが上手くいかなかった人を知っているから尚更心配だった。

 そんなとき、「仕事を辞めたら暇やろ」と知り合いが声をかけてきたことがあった。しかし、いざ仕事を辞めてみると、「したいこと」と「しなければならないこと」がほどよくあって、心配していたほどのことはなかった。

 あれから13年、今はどうだろうか。やはり「やりたいこと」と「やらねばならないこと」がほどよくあって、時間は足りないくらいだ。テレビの録画はたまる一方。読むために買った本も積んでおくだけになっている。

 1日、ぼんやりテレビを見ている気にはなれない。趣味だけに明け暮れることもできない。やはり、満足感を得られるのは、汗を流して『家のこと(家族のためになること、家を守ること、農作業をすること)』をやったり、『社会に対して何らかの貢献をしたとき』にしか満足感は得られない。百姓生まれの「性(さが)」だろうか。

 テレビで、勝間和代さん(経済評論家、作家、元外資系金融マン)の時間の使い方を知った。時間の使い方を『生産的時間』と消費的時間に分けているそうだ。 勝間さんの言う『生産的時間』とは、次に繋がる時間、自分を高める時間と言えばいいだろうか。

 『消費的時間』は、たとえ経済的に潤っても、自分を高めないような時間の使い方だそうだ。義理的な飲み会もこれに入るらしい。 例えば、講演会も、勝間さんにとっては『消費的時間』だそうだ。自分の知っていることを話すだけでは向上しないからだろうか。

 しかし、本を書くことは、そのために学ぶこともあるので『生産的時間』ということになる。 また、勝間さんは移動にかなり自転車を使うが、それは、自分にとっては、生産的時間であり、スポーツもまた生産的時間だそうだ。健康維持のために時間を使うことは、生産的だからだろう。

 改めて考えてみると、自分にとっては、時間は次の3つに分かれるかも知れない。「家や家族、社会に何らかの役に立つこと」、「じぶんのやりたい創作活動などに時間を使うこと」、そして、「健康維持のために何かをすること」の3つだ。(ラジオ体操は、スマホで朝食前にスクワットと共に、ここ数年間叶と二人でほとんど毎日やっている。)

 これらが適度にミックスしている時が、一番満足感が得られるのではなかろうか思っている。1日でこの3つをやれるとは限らない。そんなときは、一週間で、一ヶ月間で、一年間である程度のバランスを取れればよいと思っている。

 無限に時間はあるわけでもないので、自然体でこの3つをほどほどにミックスしながら。これからも前を向いていきたいと思う。

 
 

サイバー・フライデー

26 3月

プログラミング漫画をプレゼン
 一昨年頃から昨年にかけて『楽しいプログラミング』なるハウツーものの漫画を描いた。内容は、プログラミング入門の漫画だが、そこで使われる言語は、『ICHIGOJAM BASIC』だ。一昔前なら、誰もが学んだBASIC言語の流れをくむコンピューター言語だ。

 今は、何百とプログラミング言語があり、仕事によって各人がそれらを使い分けているそうだ。始めてプログラミングを学ぶ子ども達には、この『ICHIGOJAM BASIC』言語がふさわしいという人は少なくない。

 ところで、この『ICHIGOJAM BASIC』だが、開発したのはJig.jp会長の福野泰介氏だ。そこで、是非、開発者の福野氏に見ていただきたいと考えるようになった。

 幸い、鯖江市にある福野氏の会社では、毎月最終金曜日の午後6時から10時に『サイバー・フライデー』が開催されていると紹介された。誰でも自由に参加できると言うことなので、少し遠かったが思い切って参加させていただくことにした。

 その日集まって来たのは、IT関係者のほかに、他の職種の人、県外の人など様々な人だった。また、福井高専の校長や教員、そして生徒までもが集まってきていた。

【サイバー・フライデー当日、福野氏と】 【会場となったjig.jp本社(鯖江市)】

 大広間で三々五々軽食を取りながら情報交換をしている。私もいろんな話を聞かせていただいた。そして、しばらく経った頃、その場にあるパワーポイントで自分の考えたプログラムなどを紹介する時間になった。

 私も、もしものことがあればと考えて、手刷りの漫画冊子とパワーポイントで資料を作って持ち込んでいたので、皆さんの前でプレゼンをすることができた。

 嬉しかったのは、会長の福野氏が喜んで下さり、出版したらと声をかけて下さったことだ。そして、「私に監修をさせてください」と言われた。その翌日から、漫画の隅々を読んで下さり、いろんなアドバイスをして下さった。また、付録的に受け加えておいた《2進法》については、上手く描いてあるところは褒めて下さった。

 早速、その日のうちにフェイスブックで、私の漫画を紹介して下さった。その後、「出版社を探しましょう」と言うことで、「見本を作って送って下さい」と頼まれた。

 そこで、自前の印刷で漫画本を作り、表紙と製本だけは印刷屋さんに頼んだ試作品を送らせていただいた。少しずつ、夢が実現しそうな方向に進んでいるのでは期待している。また福野氏を通してその道の先駆者とも言える人とも知り合いになれた。

 リアルな人と人との出会いは、どちらへ向いて進んでいくか分からない。そこから、いろんな人との新たなつながりが生まれることだけは間違いないと確信している。

 
 

断捨離とは言うけれど

25 3月

ゴミにできないモノ
 私の生きてきた時代は、戦後の最もモノのない時代から、モノのあふれている時代だ。特に、子ども時代は、使えそうなモノは何でも保管しておく癖がついた。

 その癖は今もなお続いている。いつかは間に合うだろう、いつかは何かの役に立つだろうと思うモノは捨てられない。先ずは使わないだろうと思いながら、保管している。

 例えばそのようなモノの一つに、報恩講などに使う漆塗りのお膳の類だ。他にも、酒に関する銚子や杯の類いだ。これを座敷に並べて食事をすることは先ずないだろう。しかし、昭和の30年代頃までは必ずあったのに。

 これを焼き捨てている人を見たことがあるが、私にはできない。次の世代に任せるしかない。唐箕などの農機具もそうだ。これをたたき壊して燃やすことはできない。ある時期までは農家には欠かせない貴重なモノだった。

 こうしたモノが、我が家にはまだまだある。家内が嫁入りの時に持って来たタンスやその中に入っている着物類。着物の中にはしつけ糸がついたままのものまである。ひな人形や鯉のぼりもある。一度も着たことのない背広もある。体格が変わったばかりでなく、まだまだ着られるからだ。

形がなく捨てられないモノ
 形がなくても捨てられないものがある。ゴミにしたくないものがある。それは、各種のレパートリーだ。ゴミになりかかっている。楽譜を見れば何とかなるものはまだその気になれば演奏できるかも知れない。難しい曲は手(指)が動かない。

 しかし、楽譜を見ながら演奏できないものもある。ハワイアンギターの各種レパートリー。『南国の夜』、『珊瑚礁の彼方』、『カイマナヒラ』……。ギターなら、『夜霧の忍び逢い』、『朝日の当たる家』、ベンチャーズの様々な曲、……。ウインドシンセなら、……といろいろある。時々思い出して演奏してみないとあっという間にゴミになる。

 あれこれやりたいものがあるので、少しずつゴミになりかけている。青春が遠くに行きかけている。何とか引き戻そうとするが……。自作の歌はCDにしていけば、何とか形を留めているが。



 

 
 

 

決めつける前に

24 3月

今年は選挙の年だという
 ただ投票率を上げようとする呼びかけが、今年も統一地方選挙を前に始まっている。選挙権を持つ高校生のために
学校を投票所にすることが過去にはあった。

 しかもそれは、選挙運動の初日にだったように記憶している。選挙運動期間中に、候補者が何を訴えるかを聞く前に、投票をしてしまえというのだろうか。これでは、市民のレベルはいつまでも上がらない。

 高校生も三年生になれば、順次18歳になって選挙権を持つようになる。しかし、その前にすべきことはないのだろうか。それは自分も社会を構成する一員だということを自覚するように、大人たちが指導する必要があるのではなかろうか。

 急に選挙権を持っても、社会に関心を持たなければ棄権するか、選挙に出かけても誰に投票するかわからず、適当に投票するというのでは、ただ選挙に行ったという経験しか得られない。これでは、社会をよくするためにはつながらないのではないかと思ってしまう。

世界のどの国の人も戦争は望んでいないはずなのに
 ウクライナの人も、ロシアの人も、アメリカの人も、中国の人も、生まれながらにして、他人を憎んだり、敵味方を決めつけたりはしないし、できないだろうと思う。

 ところが、指導的な対場の人間が何も知らない大衆を教育し、互いにいわれのない対立を生み出すようにしているように思えてならない。それらが増幅して、互いに敵・味方を作りだしてしまうように思えてならない。

 そして、敵を憎み、味方を守るために、話し合いではなく、武力を使っているように思える。そしてこのようなリーダを選んだのは、教育された一般大衆であるところに、この歯車がいつまでも回り続ける原因があるのだろうか。

 選挙の年に当たって、この歯車を止めなければと思うのだが、簡単ではない。でも、この歯車をより速く回す方には組しないでいたいと思う。今日は、書きたいことをうまく書けないもどかしさがある。 

 

 
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「時喰い虫」が繁殖

23 3月

貯えられない時間
 誰にも等しく時は過ぎる。感じ方は違っても時の進み方は誰にも平等である。そして、いつも新しい明日が来る。しかしぼんやりしていると、今日になり、あっという間に昨日になってしまう。こんなに大切な時間をどう使っているだろうか。

 世の中には、時間を好んで喰う虫がはびこっている。人々の貴重な時間を遠慮会釈なしに喰い荒らすのだ。否、喰われると言うよりも無意識のうちに喰われてしまっていると行った方が正確かも知れない。

 その正体とは、一つはスマホであろう。そして、テレビ、そして、ゲーム、……、いろんな「時喰い虫」がはびこっている。怖いのは、幼い子どもが一旦この虫に狙われると生涯寄生される可能性のあることだ。

 このとき「時喰い虫」にはCMという菌もついている。そして、あれこれ買えと寝ても覚めてもあらゆる場面で迫ってくる。この時喰い虫のいない世界に住んでいたらどうなるだろうか。

 想像しなくても、70歳、80さ以上の高齢者なら誰もがそんな世界に住んでいたのだ。それが戦後のもののあまりなかったあの時代だろう。

 あまり贅沢はできなかったかも知れないが、創意工夫をこらし、季節毎に訪れる祭りや様々な行事には時間をかけて丁寧にこなしていたのだ。少なくとも今よりは心の余裕があっただろう。

 「時喰い虫」の全く存在しない世界で暮らすことは今や困難だろうが、それらに振り回されることなく、共生できる道を探らないと、人生は生きていると言うよりも、泳がされている、働いているというよりも働かされている、そんな風になりはしないか。

 若い人たちは、毎日頑張って働いているが、一月単位で考えると、車のために一週間以上、スマホや衣食住のために二週間、残りの一週間が貯蓄や余暇のためだろうか?これで結婚し、子どもができ、その教育費にお金をかけるとなったら、大変だろうなあと考えてしまう。

 国会中継を聞いていて、特に少子化の問題をテーマにしているのを聞いていたら、ついついこんなことを考えてしまった。再度、下記のグラフを掲げておきます。

 
 

大谷選手に続こう……

22 3月

DREAM & ACTION
 今日初めて大きな画面でWBCを観ることができるようになった。WBCの予選が始まった頃は、静止画でスコアだけを見ていた。期間中に、今年大学生になる孫娘が横浜から帰省した。そのときに、既にスマホで動画を見られる状態だった。

 早速、私もその環境にして、スマホで観たり、スマホをスマホで映し、テレビでポントの会わない画面で試合を観ていたが、今日、昨日機器を買って要約普通に観られる環境になった。

 野球の試合は、これまで漫画にもならないような展開で日本は勝ち進み、今日も逆転して、9回表ツーアウトという場面で、最後は大谷選手対トラウト選手という大リーグのスーパースター同士の対決、しかも同じチームという漫画にも描けないような場面。

 大谷選手が、トラウト選手を三振に切って取り、試合終了。侍ジャパンの優勝で幕が下りた。この試合を観て夫々何を考えただろうか。大谷選手の活躍を観て夫々何を感じただろうか。当然、大谷選手は最高殊勲選手。

 大谷マップを見ると、今日の頂点へ至る道は、偶然ではなく、地道な日々の積み重ねと、将来に対する確たる夢を持ち、それに向かってたゆまぬ努力をしたからに違いない。改めて、大谷マップを紹介したい。

大谷マップ ここに書いてある夢へ向かっての日々の取り組みが、今の大谷選手を導いたのは明らか。

「夢を持ち、それに向かって行動しましょう」と言いたい。  DREAM & ACTION! 

 
 

デジタルデバイド

21 3月

子供や若者に教えを乞う高齢者
 IT化が進む現代において、デジタルデバイド(情報格差)がますます広がろうとしている。特に、情報化社会に到来により、かつては職場などでは新人とベテランでは仕事の上では明らかな差があった。

 新人は、ベテランにものを教わり、その背中を見ながら、少しずつ追いつき追い越すというのが一般的なパターンだった。したがって、精進の後、先輩や親方を追い越して初めて恩返しができたという感じであった。

 ところが、近年急激に発達したデジタル機器やデジタル社会の到来により、年長者よりも若者、時には子供たちの方がそれらに柔軟に対応し、スマホなども、子供や若者の方がはるかに高齢者よりも技術的にも上の社会になってしまった。

 この面では、これらについて学ぶ機会がある高齢者はよいが、そうでない高齢者は様々なサービスを受けられず、情報を手にすることもできず、放置されようとしている。

進むデジタル化と取り残される高齢者
 2020年のコロナ禍をきっかけとして、デジタル環境は急激な変化を続け、さまざまな手続きのデジタル化やリモートでのコミュニケーションが一気に進み、リモートワークも増えた。

 そのような中、優先されるべき高齢者が情報格差によって取り残されがちな状況が起きつつある。私も、スマホを持ち、パソコンをネットにつないでなんとか、振り落とされないようにしているが、技術的には相当レベルが下であると自認している。

 私の場合、幸い、息子がこの世界で飯を食べているので、トラブルに際しては、遠隔で私のパソコンに入り込み、あれこれ不具合を直してくれるので何とか、これらの機器にへばりついて、楽しんでいるという具合である。

 もしこうした環境でなかったら、おそらく、絵を描くことも、映像を編集することも、音楽に関しても、すべて、何もできないでいただろうと思う。そして、デジタルの恩恵を受けることなく、日々暮らしていたかもしれない。

 自力でインターネットを駆使できなかったり、スマートホンやパソコンでの操作ない人たちと、そうでない人たちの格差が広がらないように願うばかりである。これも、現代の大きな差別ではなかろうか。

 いよいよ明日決勝を迎えるWBCも、通常のテレビでは見ることができず、つい最近までは映像抜きの実況を聞いていたが、ようやく、スマホで動画を見るように教わったばかりである。

 そして、今日、それをテレビで見る機器を買ってきたので、明日は大画面で日本ーアメリカ戦を見られるだろうか。わくわくする。きっと、ここにも大きな情報格差があるのではなかろうか。

 
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観光資源というと

20 3月

観光資源は神社仏閣、名所旧跡、自然、動植物、名物、・・・・・
 どこかに何かを見に行くとき、何を目当てに出かけるだろうか?出かけたいだろうか?上記に書いたものもその一つかも知れないが、私は是非ともこれらに人間を加えたいと思う。

 あの人の話を聞きたい。あの人と一緒に過ごしたい。そんな人が複数いる町なら最高だ。是非とも訪れてみたい。それらの人を訪ねて話を聞いたり、いっしょに食事をしながら話し合うことが得きれば最高だし、教えを請うことや生き方に気づかせていただければ最高だ。

 神社仏閣や名所旧跡は大概はそんなに何度も出かけたくはならないだろう。人は時間が経てばまた会いたくなるだろうし、話を聞きたくもなろう。

 大学であれ、研究所であれ、職場であれ、あの人の元で働きたいと思うような人がいれば、いずれは観光資源のような存在になるのではなかろうか。魅力のある人間、人を引きつける人間と言うことだろうか。

 時々そのような人がいる。しかし、私とは生活空間が異なっておいそれと会いに行くことができない。今は、心の中で暖めておくしかない。でもいつかは出かけてお会いしたい。

 個人的には、東に話を聞きたい人がいれば出かけて(何度も)話を聞き、西に面白そうな人がいれば行って話を聞いた時期はある。それが、何かをするときの大きな力になったことは間違いない。

 今また、そうした人ができつつある。相手の年齢には一切関係がない。人生、人との出会いで楽しくなる。生き甲斐に繫がる。今は離れていても、SNSがあるのが嬉しい。そのうち、リアルで会いたいものだ。 

 

 

 

 
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夢物語~鐘撞堂とAR(拡張現実)

19 3月

釣鐘のない鐘撞堂
 我が村にある佛母寺が、令和7年、33年に一度の御開帳を迎える。そのときには、開扉式を行って秘仏が公開されるのだ。私は、今から64年の高校時代、31年前の49歳の時に御開帳に巡り合わせている。

 村にあるこの佛母寺だが、曹洞宗の末寺だ。ところが、村人はほとんどが浄土真宗であるために、この佛母寺には門徒がいない。それでも、これまで村をあげてこの寺を守ってきたのだ。

 今日は、村の総会で2年後の御開帳についても議題になり、今後の取り組みなどについて話された。日程や諸行事のあり方などについても報告された。

 この寺は以前は藁葺き屋根の古いお寺で、屋根の葺き替えには、村人が割り当てで茅を刈って持ち寄ったものだ。ところが、越前大仏の建立と共に、道を隔てたこのお寺も新築していただけることになった。

 本堂はそれでよいのだが、今にも倒れそうな鐘撞堂があり、釣り鐘はない。戦時中の金属供出により釣鐘も軍に差し出したからだ。釣り鐘のない鐘撞堂。せめて一夜だけでも、鐘の音を響かせられないだろうか。

福野氏のフェィスブックより

ここからは想像の世界
 早速、スマホで福野氏(jig・jp会長)に相談。私の夢を伝える。“張りぼて“の釣り鐘を作って、本物のごとく、鐘をつくと、そこから本物の鐘の音が「ゴ~~ン~」と鳴り響く。許されるならば、本山、永平寺の鐘の音だ。

 というのは、福野氏の会社jig・jpが上場したときに、いつもテレビで観るあの鐘を鳴らす機会があったそうだ。その後、福野氏はデジタルでその鐘をたたくことを考えたというのをフェイスブックで読んだからだ。だから、“張りぼて“の鐘でも可能だということだった。

 ところが、しばらくして、福野氏からの返事は「ARで鐘を作って、鳴らすと大音量で鳴るとか?」と返事が送られてきた。AR?拡張現実だ。現実の景色の中に、大きな鐘が現れるのだ。そこで、綱を引いて鐘をつくと大音量で「ゴ~~ン~」と永平寺の鐘が響くということだろう。

 私の想像をはるかに超えている。考えることは楽しい。一時、素晴らしい夢を見ることができた。できる、できないはともかく夢をいただいた気がする。この先どのような時代が来るのだろうか?

 
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人と人との出会い

18 3月

人との出会いは必然のようで偶然、偶然のようで必然
 人と人との出会いは偶然のように感じることがある。たまたま、紙切れ一枚(辞令)で思わぬ所へ勤めるようになる。そして、将来に関わる大切な人との出会いが生まれる。

 そう考えると、その人との出会いはたまたま紙切れ一枚でそこへ出向いたための偶然のようにも思える。しかし、もう少し、深く考えてみると、その人と会ったのは私一人ではない。

 誰もが、将来に続く関係を結べるわけでもない。互いに、認め合う何かを持っていたからだろう。そう思うと、偶然から生まれた必然のようにも思える。

 この年になると、これまで生きてきた中で続く友達関係を大切にしたいと思う。上司部下ではなく、せいぜいあるのは歳の上下ぐらいであろう。それだって、関係の上下ではない。

 そうした関係が長く続くのは、やはり、前を向いているからではないかと思う。やはり、自分の考えを持っている人、前を向いている人、何かを目指している人、正義感のある人、そうした人なら何歳であろうと友達でいたいと思う今日この頃である。中学生から70歳代までいろんな人がいて、時々LINEをしたくなる。