「当たり前」と盲信していないか?
世の中で行われていることに、私達は何の疑いもなく「当たり前だ」と思っておかしく思わないことが沢山あるように思う。まもなく、参議院選挙が行われる。あの公約がそうだ。
選挙が終われば、先送りされることが多い。役所などでは「検討します」と言ったら、ろくに検討もしないで先送りしてしまうことが多い。国民に負担を求める前に、議員の方も身を切るということで議員定数減を議論していたが、なかなか実行できない。
TPPも自民党は一見反対であるかのようなコメントを出していたが、あっという間に交渉入り。何が起こるのかは、ほとんど国民に説明しないままだ。国民はだまされてしまう。それが政治家にとっては「当たり前」だろうか。
政党とは、過半数を取ればよい存在なのだろうか。「格好良く国民の声を聞く」と言うが、いつどこで国民の声を聞いたのだろうか。声を聞くどころか、「やらせ」が実に多かった。
世の中、いろんな面で「当たり前」で見過ごしてしまうことが多い。しかし、よく考えてみると、私たちの「無知」を良いことに、勝手にどんどん物事を進めてしまっているように思う。原発も知らぬ間に政治家も学者も電力会社も含めて「ムラ」ができていた。
しかし、東日本大震災でそのことが表に出た。電力料金も、必要経費+αを国民負担としていた。どうしようもない、大事故になったが、担当者の無責任な言動が表に出た。国民をなめることが当たり前だったのだろうか。
復興予算も、復興と無関係なところでどんどん使われている。震災復興のことを気にせず、自分の自治体さえよければと行動することが当たり前なのだろうか。政府も、マスコミで問題になって、少し慌てているように見える。
お寺とのご縁で「親鸞聖人物語」を紙芝居化しようとしている。よく考えてみれば、数限りなく唱えているお経の「正信偈」には何か書いてあるのだろうか。「仏説阿弥陀経」には、「観無量寿経」には何が書かれているのであろうか。
分からないのが「当たり前」なのか、「分かろうとしないのが当たり前」か。とにかく、何も分からずに聞いている。お経とはそんなものだと決めてかかっている。この際、分からないのが当たり前ではなく、少しは勉強して理解したいと思う。
とにかく、「当たり前」を口実に、問題から逃げていることが世の中にはあまりにも多すぎる。これでは、世の中はよくならないのではなかろうか。我々国民も少しは物事に関心を持たなければと思う。「それって当たり前?」と考えて。
(日記 今日は朝から紙芝居の絵を描くと決めた。終日絵を描いていた。途中の午後4時から1時間だけは、『親子太鼓』の練習をしていたが。今日のノルマは2枚だったが、1枚半しか描くことができなかった。明日があるさ。まっ、いいか。)