宮城県。南三陸町 悲劇の防災庁舎
最後まで職責を全うして亡くなられた職員の皆さん、被害に遭われた数多くの町民の皆さんのご冥福をお祈りします。
・・・・・河北新報(2011年3月18日号より)・・・・・・
いまだに職員20数名が行方不明
「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」
3月11日の東日本人震災で、町民8OOO人以上が行方不明になっている同町。住民を避難させようと、最後まで庁舎に残った職員二十数人の行方もいまだに分からない。
遠藤副町長ら、最後の職員が陣取ったのは同町志津川の総合防災庁舎3階の建物、今は、赤い鉄骨が残るだけだ。
津波の第1波の襲来まで庁舎内には約30人の職員がいた。しがし、無事が確認されたのはわずが8人。遠藤副町長もその一人だった。
依然行方が分がらない職員の多くが防災担当だった。防災無線を使いぎりぎりまで住民に避難を呼び掛けた。屋上に避難してフェンスやアンテナにしがみついたが、津波の力は想像をはるかに超えていた。
階段の手すりにしがみついて一命を取り留めた佐藤徳憲総務課長(60)は、第1波の後、多くの仲間が消えていることに気付いた。「何とも言えない失望感。ただそれだけたった」(以下省略)
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8月1日、宮城県の南三陸町の防災対策庁舎を訪れ、亡くなられた皆様方のご冥福をお祈りして合掌し黙祷しました。津波はこの3階建ての防災対策庁舎のさらに2m上まで達したそうです。
このとき、町職員遠藤未希さん(24)が放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握り、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
と呼びかけて多くの方々の命を救ったそうです。しかし、声の主の遠藤さんの行方は震災ご見つからなかったそうです。震災当時、私はこのニュースを知って愕然とし、言いようのない気持ちに襲われたことを昨日のように覚えています。
被災地を車で走らせていただいたが、復興間まだまだ先のようであると感じた。ガレキが確かに多くの町では取り除かれ、道路はでき始めてはいるが、そこに住居や商店街ができ、人が行き交うまでにはまだまだ時間がかかりそうである。
その間、子供達は大きくなり、高齢者の人たちはますます年を取り、ふるさとを離れて新しい生活を始めておられるのではなかろうか。そうでなくても、地方は少子高齢化と過疎化の波が押し寄せ、衰退の一途を辿っているだけに、被災地の方々のまちづくりの苦労は想像を絶するものがあるように思われる。こんことを忘れてはならないと肝に銘じた次第である。