祭りを待ち焦がれた子ども時代
今日は猪野瀬地区活性化委員会。「ニコニコ地域づくり委員会」の活動、地区の行事、まちづくりなどについて、色々話し合った。
その中で少しだけ「村の祭り」について話題にした。どの集落も祭りが低調になっているようだ。その上、コロナで尚更簡略化し、神事を行うのがやっとだ。提灯を吊ったり、幟をあげたりするなどの祭りの準備さえ簡略化している集落もあるらしい。
賑わった秋祭り
かつては、村の祭りと言えば、露天の店が何軒か並んだり、大人の相撲があったり、民謡踊りがあったり、太鼓の野良打ちなどがあったりして、それは賑やかであった。家では、親類が集まり、泊まっていくのもごちそうだった。
この日ばかりは、料理屋から祭りの料理を注文して客をもてなしたりしたものだ。当日は、神社へ出かけるのも、酒を酌み交わし、ごちそうを食べ、千鳥足になってからだ。
家族はもてなしに忙しく、踊っている場合ではない。帰宅してからも、雑談をし、酒を飲み直すのが常だった。翌日の「後祭り」に、ようやく家族も神社で踊ったりしたものだ。子ども相撲は大概この「後祭り」に行われていた。
子どもの頃は、祭りさえあれば楽しかったが、それなりの大人になると、秋は祭りで客を呼ぶのも大変だが、呼ばれるのも大変だった。秋は、週末になると祭りのために忙しかった。
衰退する村祭り
その後、秋祭りはすっかり衰退してしまった。いろんな娯楽が出てきたからだろうか。精神的に余裕をなくしたこともあるかもしれない。なぜならば、農家の忙しさと来たら、それこそ比べようのないくらい昔の方が忙しかったと思う。何しろ、家庭には車などはなく、農業機械もほとんどなかった。
田んぼを耕すのは馬や牛で、後は全て人力であったし、煮炊きするのも全て薪で、その薪は農閑期に準備しなければならない。単調な農作業は、家族だけでは大変なので、近所が集まって作業をする「結い」で行ったりしたものだ。
年柄年中働いていなければ食べていけないのだ。それでも、秋の祭りは、若い衆祭り(前々日)、弓矢(前日)、本祭り(当日)、後祭り(翌日)と、数日間はあった。精神的余裕がなければこんなことをできないだろう。
その後、祭りはどんどん低調になっていった。抽選会やカラオケが精一杯だったが、それも下火になっていった。昔の盛んだった面影はない。祭りは当日だけで翌日は片付けてしまう。露天商はなし。太鼓もなし。音楽ばかりが鳴っている。近年そんな祭りになってしまった。
祭り復活を目指して
そんな低調な祭りを何とかしたいと、あるとき区長が相談をかけてきた。私は、二つの提案をした。一つは、女の子には“浦安の舞”を取り入れたら。
女の子達は、小学生の頃は子供会などで村の人も少しは顔を覚えているが、中高生になると、どこの誰だか分からなくなり、就職したり、お嫁に行ったりして知らぬ間にいなくなっている。
そうではなく、村の祭りのヒロインになってほしいとの願いからだ。神社で厳かに“浦安の舞”を舞えば「どこの誰?」と注目され、拍手喝采、村の子としての存在感もあるだろう。単純な発想だが。
もう一つ提案したのは、片瀬に大正時代、もしかしたら、もっと前から伝わる「銭太鼓の復活」だ。といっても、これまでは村の誰かが、島根県の「安来節」と「銭太鼓」と「ドジョウすくい」を伝えたものだ。「♪いずーもーー、めいーぶーーつー♪」では片瀬の郷土芸能にはならない。
しかし、この「安来節」はある時期、片瀬の若い衆が勝山劇場でもやったというくらいこの地区ではちょっとした芸になっていたのだ。そして、私が結婚したときには、青年団がこれらを演じ、花婿もみんなといっしょに銭太鼓のバチを振るうことが伝統になっていたのだ。
しかし、その後すっかり廃れてしまったので、これをリニューアルして片瀬の祭りの演し物として伝えようというものだ。「浦安の舞」は他の者に任せて私は「銭太鼓」のリニューアルに取り組んだ。
そして、生まれたのが、「片瀬豊年囃子」である。ドジョウすくいからは完全に脱却したが、ユーモアだけはいただくことにしたのえだる。歌も伴奏もみんな生。これは,片瀬を飛び出して、市内はもちろん、市外でも演じることができるほどに育ってくれた。
コロナで全てが振り出しに
しかし、コロナと共に、村の祭りは低調になってしまった。二つの芸も祭りでの出番を失ってしまった。そして、村の祭りは、抽選会だけのさみしいものになってしまった。昨年は、神社へお参りした者は抽選券を抽選箱へ入れるのだ。当たっていれば、後日、役員が商品を家庭に配ってくれるのだ。
今後、秋祭りはどうなるだろう。今日、猪野瀬の活性化委員会に出席していて、「今の時代にあわせて何とかしたい」と改めて思った次第。昔はまだまだ忙しかった。余裕を失ってはいけない。そう思いながらこのブログを書いている。