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Archive for 4月, 2012

大師山

30 4月

片瀬の守り神
  我が集落片瀬の背後には大師山がある。私達の世代は、何かとこの山に関わってきた。子ども時代には、主に薪を運ぶためにこの山を上り下りした。我が家では、田んぼはあるが、山はないので、子ども時代には村の山で薪を取らねばならなかった。

大師山山頂から村岡山方面を望む。

  村の共有林は、大師山の裏側にあるので、薪を運ぶのは子どもにとっては大仕事であった。両親が作った薪の束を大師山から家へ運ぶのだ。夏休みの暑い日でも毎日一度は薪を運ぶのが日課であった。

  片瀬に住む子どもは誰でもこの薪運びが仕事であった。「働くもの食うべからず」が子ども時代から身体に染みついていた。今の子ども達はどうであろうか。

  山仕事が容易にできるようにと、毎年「山道作り」と称して、道の両端の草や木の枝を刈り払い、場所によっては、道路が川にならないように水抜きを作るのだ。

  私はこの仕事に、高校時代からずっと参加している。昔は、この他にも、年に数回村の山の下草刈りがあったが、これは負担が大きいので今は県の方にやってもらっている。

  大師山は、我が村の生活を支える大切な山だったのだ。しかし、近年は、プロパンガスの普及で薪を取ることがなくなった。最近はそのガスさえ使わない家庭が増えている。また、かつては、馬のえさや田んぼの肥料のために草を刈ったがそのような必要もなくなった。

大師山山頂から大野方面を望む。昨年地主の了解を得て、樹木を伐採したので初めて大野方面が眺めれるようになった。大師山たいまつ登山の日は、例年大野市の花火大会の日でもある。きっとよく見えるだろう。

  それでも、山道作りが続いている。おそらく、今の若い者達は、何のために山道作りをするのか、その必要性さえ分からないだろう。また、一方では、我が村も高齢化が進み、登山道と林道の二回の「道作り(草刈りや水抜き作り)」は家庭によっては実施が困難になりつつある。

  これまでやっていたからということで、訳も分からず昔と同じように山道作りを続けているが、その範囲を調べてみると、ここ50年間、勝山市の山の際の「道作り」まで引き受けているのだ。

  市の関係者と話し合い、せめて「道作り」は自分の村の山の際だけにしてもらいたいと思っている。今市に申し入れてある。村の歴史も知らず、村の山の位置も知らず、ただ先人がやって来たからといって少子高齢化の進む今、そうしたことを見直すことなくやっているのでは、若い者に受け入れられないだろう。これからは、やるべきことはきちっとやっていきたいと思っている。

  午後、大師山の状況を見るために軽トラックで家内と一緒に山頂まで出かけた。山は新緑が始まろうとしていた。しかし、心配なことは、松の木をはじめたくさんの樹木が枯れていることだ。今年も、枯れた木が林道をふさいでいた。

 

頂上へ行く途中の山道の脇で採った「わらび」。春の恵みだ。

 まだまだたくさんの木が枯れて通行の妨げになるだろう。通行人の事故につながらないように、気を配らなければならない。生活の山、大師山を区民でこれからも見守っていかなければならないと思う。

(日記 午前中、紙芝居の絵を2枚書いた。ようやく半分が過ぎた。5月の10日頃までには描き終えたい。そして、初めての上演である5月の16日の野向保育園の園児や総父母の前でしっかりと演じたい。午後は、大師山の検分。ゲートの状況、道路の状況、崖崩れなどの状況、そして、頂上の様子を調べに出かけた。途中で、山菜採りの人二組と登山の人に出会った。私も、途中で、少しだけ“わらび”を採った。帰宅してからも紙芝居の絵を1枚描いた。)

今日描いた紙芝居の一場面。早く完成させたい。

 
 

『上丹生チューリップ祭り』研修

29 4月

人と人との縁
  エコミュージアム協議会の研修『上丹生チューリップ祭り』視察に家内と二人で同行することにした。会員ではないが、興味があって同行したのだ。午前7時30分市役所前を出発し、高速道路で一路米原インターへ。一般道を少し走って上丹生に着いた。

チューリップ祭りのスナップ。懐かしのエレキバンドの演奏を聴くこともできた。窯で焼いたピザも美味しかった。

  上丹生の集落は、米原駅から約10キロ東に行ったところだ。集落内を流れる丹生川に沿って家が建ち、その周囲には山が広がっていた。駐車場を降りるとテントが並ぶグランドが見えた。そこが祭り会場であった。

 そこまでの道には、小さな野菜畑があったが、猪から守るためかどの畑にも、まるで鶏小屋のように背丈以上の高い網が張られていた。山間に住む人達の苦労がしのばれた。

  この集落を少し歩くと、「木彫り」という文字がいくつか見えた。「木彫りの里上丹生」としても有名だそうだ。最近、木工関係の後継者は減っているとのことであった。また約150世帯で五百人あまりが住むこの集落にも近年高齢化の波が押し寄せているのだ。

 しかし、そんな中でこの区の人達は、区民からメンバーを募ってまちづくり委員会を設置し、まず自分たちのまちに対する意識調査を行ったそうだ。私は、全てのアクションの前に『現状分析』が重要であるというのが持論だが、この地区の人達もそうしたところから始めたようだ。

チューリップ畑で記念写真。

 そして、この上丹生の人達は、「プロジェクトK(Kは上丹生の頭文字)」を始めて、様々なアイディアを出しながらまちづくりを続けてきたというのだ。毎月の例会では、メンバーがいろんなアイディアや意見を出し合い、それらの中からいろんな事業を展開してきたらしい。

  その一つが、チューリップ祭りだ。そして、今日の祭りの素晴らしいところは、利益を震災を受けた東北の人達のために全額寄付するというのだ。私達が、模擬店で何かを買えば、その一部が東北の皆さんのためになるのだ。そう思うと、気持ちがよくなる。

 同区のホームページには以下のようなことが書いてあったので、一部だけ紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上丹生ホームページより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 新しい事をする場合、やる前から弊害や問題点ばかりを探すのではなく、まず実行してみようの精神も大切。

ツリーハウス。風がさわやかでとても気持ちがよかった。(上左:HPより転載)

 上丹生まちづくり活動の秘訣、プロジェクトK方式をご紹介します。
その1:会議は、クジ引きで座る場所を決める。
その2:若い世代の「意見をききましょう!
その3:地域のお年寄りが、得意分野でアドバイザーに!
その4:活動は地域住民全員に呼びかけよう!
その5:来る物は拒まず、去るものは追わず。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
滋賀県立大生の取り組み
  滋賀県立大生は、この上丹生と関わりを持っているらしい。そして、彼女たちは、東北とのつながりも持っていろんな活動をしているとのことだ。その一つが『ほたてあかり』の販売だ。

上左:滋賀県立大生の『ほたてあかり』の説明。上右:『ほたてあかり』の販売。下左:彦根西高校生の書道パフォーマンス。下右:できた作品。

  この『ほたてあかり』はホタテ貝の貝殻にろうそくを立てたものだ。「ろうそくの灯る時間、東北を想おう」というもので、一組500円だ。このろうそくは、お寺で使う和蝋燭の使い終わった部分を回収して、新たに蝋燭を作ったものだ。

  かつては、使い終わった蝋燭は、蝋燭屋が回収したそうだが、今はそれがなく捨て場に困っているとのことだ。それを使って、新たな蝋燭を作っているのだ。そして、蝋燭の売り上げは、原材料費を除いて、製造した宮城県南三陸町にある田浦地区のお母さん方の人件費と同町の復興に使われるというのだ。

 今日のチューリップ祭りでは、二人の滋賀県立大生(女性)が、そのことを来場者に説明し、『ほたてあかり』を販売していた。二人の学生のうち一人は、隣町の永平寺町出身だと聞いて驚いた。

  私も、いつかは東北の子ども達のために何かできないかと考えていると彼女たちに話した。紙芝居制作もそうしたアクションにつながればと思って続けている。彼女たちによれば、子ども達は遊び場も流されて避難所の小さなスペースで遊んでいるとのことだった。

  いつの日にか、子ども達の前で何かできることをやってみたい、そんな気持ちで彼女たちの『ほたてあかり』販売を眺め、二組買わせてもらった。いろんな所でいろんな取り組みがなされていることに感心した。

(日記 午前7時半自宅を出発し、私は会員ではないが、エコミュージアム協議会の研修『上丹生チューリップ祭り』視察に家内と二人で参加した。そして、午後4時に帰宅した。充実した研修だった。帰宅途中、家庭菜園へ寄り、キュウリなどに水をやった。)

 
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ニラの力

28 4月

低農薬菜園のために
  農業は、プロであれアマであれ病気と虫害に悩まされる。そのために、農薬は欠かせない。しかし、誰もが少しでも農薬を減らしたいとは思う。作物が全滅したり、大幅減収では農薬もやむを得ないだろう。

ナスとの混植。果たしてニラがナスの病気を防いでくれるだろうか。

  例えば、ショウガだが健康にはとてもよい作物だ。特に、現代人は低体温になりやすいと言われている。体温が1度下がるだけで病気になる確率はうんと増えるらしい。

  低体温予防にはショウガが有効だそうだ。そう思って私も自家用の生姜をたくさん作っている。しかし、このショウガだが、私の地区の人達も見学した有名な産地では、年間三十数回も消毒しているそうだ。健康によいことではないだろう。

 そう思っていた矢先に本屋で低農薬農業の本を購入した。その中に混植による病気予防についての記述があった。ナス科やうり科とネギやニラとの輪作や混植がよいと書いてあった。

  そこで、今日、ナスを植えた際にその近くにニラを植えておいた。果たしてナスが病気にかからないかどうかだ。今年は、トマトでも実験したいと思う。

 ところでこのトマトだが、農業雑誌『家の光』によれば、ポット植えの苗はそのまま畑に植えないで、少し大きめのポットで一番花が咲くまで育ててから畑に植えた方がよいと書いてあった。

ニラとトマトの混植。トマトの一番花が咲くまではポットで同居生活。その後も畑で同居生活。健康なトマトが育つだろうか。

  そこで、二つの本の記述を信じて、トマトの苗を少し大きめのポットに移植した。その際、ニラと一緒にポットに植えた。本によれば根が絡まるくらいの方がよいとも書いてあった。そこで、その通りにした。

 また、キュウリなどの『うどんこ病』には、乾燥したスギナの汁を煎じた汁を薄めてかけるとよいとも書いてあった。そこで、今日、乾燥スギナを作った。これで、農薬を減らせるなら嬉しいのだが。果たしてどうなることやら。確かめてみたい。今年は実験の年だ。

(日記 午前9時まで紙芝居の絵を描いた。その後、野菜の苗を買いに行き、畑に植えた。途中、昼食を挟み午後も3時まで作業を継続した。午後4時から親子太鼓教室。今日は、一組の親子が欠席しただけで、みんな参加してくれた。新曲の練習を始めたが、子ども達は、意外と上手だった。午後7時半から臨時役員会。ゴミ集積所の問題など6つの問題についていろいろ意見を交わした。帰宅したのは午後10時であった。)

花壇の前で「はいポーズ」をする太鼓教室の子ども達。私の新しい友達だ。でも孫と同じ年齢だが。

 
 

来月の出演に向けて

27 4月

『片瀬豊年ばやし』福井で披露
  福井の木田神社の祭りに、我が片瀬の新しい郷土芸能『片瀬豊年ばやし』が出演することになった。銭太鼓に取り組む団体は少なくないが、オリジナルの民謡で演じているグループとなると、非常に少ないだろうと思う。

『片瀬豊年ばやし』の練習。中学生も参加して盛り上がった。

 芸のレベルはともかく、オリジナルであることには胸を張れると思っている。市内ではかなりあちこちで出演しているために、知名度は上がってきている。福井での演技は今回で二度目だ。

  おじさんの中に中学生(女子)も入って一緒に演技をしている。本人の希望で練習に参加しているのだ。とても前向きなのでありがたい。練習にも欠かさずにきてくれる。次世代が育つことはうれしい。 

 私としては、『片瀬豊年ばやし』はまだ本当の郷土芸能ではないと思っている。それは、歌も男の銭太鼓も締太鼓も女踊りも村の者がやっているが、まだ、音楽は私の作ったCD(カラオケ)を使っているからだ。

 伴奏も、三味線や笛、締太鼓、鉦等を使って生で演奏できたときが、始めて本格的な郷土芸能になると思っている。もう一息だ。ギターの弾ける人間なら、三味線もある程度できるはずである。フルートのできる人間なら、篠笛も吹けるはずである。何とか、生で伴奏できるようにしたい。

 同様に村の祭りで小中学生(女子)が浦安の舞を踊っているが、これもCDの歌に合わせて踊っている。この音楽も区民が生で歌えたときが、本物になると思っている。

トマトの雨よけを作った。休み中に苗を植えるつもりだ。家庭菜園作業はとても楽しい。

(日記 午前中、紙芝居の絵を描いた。出演日を逆算すると、最低でも一日に1枚は描かなければならない。今日も、午前中で1枚を書き上げた。午後は、家庭菜園作業だ。トマトを植える場所を作った。いつも面倒なのは、トマトにビニールの雨よけを作る作業だ。また、ゴールデンウイーク中にいろんな野菜を植えるられるように、畑の畝を立てた。午後6時過ぎまで家庭菜園で過ごした。午後7時半から『片瀬豊年ばやし』の練習。結構盛り上がった。)

 
 

アップグレード

26 4月

ソフトの進化について行けない
 私は、できもしないのにいろんな分野に手を出すので、パソコンのソフトもいろいろ必要になる。的を絞りたいが、あれもしたいし、これもしたいという欲望は収まらない。

 ソフトのバーションが上がると、性能が向上するのであろうが、それを使いこなせないとかえって不便になる。私は、文章を書くために『一太郎』を使っている。ダイレクトメールにつられて、『一太郎2012承スーパープレミアム』を購入した。

 メールが読めないということなので、ワード・エクセル・パワーポイントのセットも買った。パワーポイントは、アグリーで用が足せるのだがどうせならと思って購入した。そして、昨日、Y 君にインストールしてもらった。

  今日は、私が発行する区の広報誌『かたせ瓦版』を完成させるために、新しい『一太郎』を使ったが、勝手が違う。何かするたびに以前と異なるために苦労する。時間がかかったが慣れるしかない。

新聞や雑誌のスクラップのためにも是非使いこなしたいハンディースキャナー。

  しかし便利な機能もある。今日使ってみて、気に入った。それは音声読み上げソフト『詠太2』だ。自分で書いた童話も読んでくれる。校正をするのに文字を見ている必要がないから集中して聞くことができる。これは使い方も簡単なのでありがたい。

 まだ使ってはいないが、『ハンディースキャナー』も付いているのでこれは使いこなしたいと思う。新聞などの気に入った記事を切り抜いたりしなくてもデータ化できるのでありがたい。

  絵を描いたり写真を加工したりするソフト『フォトショップ』も『イラストレーター』も、動画編集の『プレミア』も自分の持っているものより今や二つほどバージョンが上がっているが、バージョンをあげるどころではない。今のバージョンを使うだけでも能力オーバーだ。

 音楽ソフト『シンガーソングライター』にいたっては、新しいバーションのものを買ったが、未だに古い方を使っている始末だ。今後も、ソフトの性能はどんどん向上していくだろうが、使う方の人間は、年をとるばかりで使いこなす能力は落ちるばかりである。

 そろそろやることの的を絞らなければと思うが、もう2,3年はこのままで頑張りたい気持ちもある。今は、どうするか、岐路に立っている。家内は、いつも、「やることを決めたら」という。あまりにも忙しそうなので的を絞れということだろう。しかし、その言葉を聞くたびにさみしくなる。

(日記 午前中、区の新聞作り。その後、市役所へ行って区の諸手続をしたり、補助金の申請について説明を受ける。午後公民館と市役所から全戸配布の広報誌などがどっさりと届く。これを班長に配るのは、かなりの作業だ。私の新聞も加えて各班長に配った。役所からは、いろんな用件の電話がかかり、道路に関しては市役所の職員と現場を見て回る。ゴミの集積所の問題について臨時役員会を早急に開催したいので、通知を書いて役員に配った。慌ただしい一日だった。)

 
 

超多忙な一日

25 4月

段取りの悪さに猛省
  「あと一日あったらなあ」といつも真剣にそう思う。何をしても、ぎりぎりになってしまうのだ。しなくてもよいことをやっている場合も少なくない。手抜きしてもよいことを一生懸命やっている場合もある。もちろんせざるを得ないことも少なくないが。

  区長になったのを機会に『かたせ瓦版』を出すと決めて一枚だけ出した。大きさはA3を二つ折りにした4ページのものだ。地区の人達に、先ず知ってもらいたいことを自分流にアレンジして書いてみたいと思う。

4月1日発行の臨時『かたせ瓦版』

  明治45年に我が片瀬の有志が発刊した『片瀬誌』によれば当時は村の年中行事が63もあったのだ。それらを紹介してみたい。この冊子になる村の名所旧跡等も紹介したい。

 みんなで心がけたいこと、珍しい話、地区の歴史、地理的なことなど、探せばいくつかはあるだろう。新年度の村の役員や、次の月の行事なども知らせたい。写真も載せたい。そう思うと、かなりの作業になる。第2木曜日の明日が発刊日だ。

 午前中は、この瓦版作りを行った。まだ1ページが残っている。明日の午前中には作り上げたい。これまでぼちぼちやってきたが、あち一息だ。

 区長としての金の出し入れも、数件有り、金融機関へ行っりした。午後は、太鼓の連中の『フラダンス教材』作りを行った。You Tubeを見ながら、振り付け表を作った。これが予想以上に時間がかかった。結局今晩の練習に間に合わなかった。

  専門家に教わらず、みんなで映像等を見ながら振り付けを考えるのだ。これはこれで楽しい。私は、バンドで彼女たちとコラボするつもりでいる。ハワイでアロハシャツも買ってきたことだし、長年の夢でもある。

 こんな事をしているから時間がいくらあっても足りなくなるのだ。それでも誰かに追おわれているわけではないので、充実している毎日だ。問題は、体力や気力が持つかどうかということだ。

(日記 午前中、地区の瓦版作り。そして、雑務。午後はフラダンスの振り付け表作り。思ったよりも時間がかかった。午後7時半より、『農事組合法人かたせ』の集会。その後、事務所へ出向いてフラを練習している連中と話し合い。その後、Y君から購入したソフトをインストールしてもらった。長い一日だった。)

 
 

「見ています あなたの姿 子や孫が」

24 4月

FBCラジオに生出演
 先週、県の子供家庭課から電話がかかってきた。「来週のFBCラジオに子育てマイスターとして出演していただけませんか」というものだった。

メインアナウンサーの岩本氏と女性アナウンサーと記念写真。(FBCのスタジオで生出演)

  中身は私が話したいことでいいということになった、そこで担当者のTさんに想いを述べた。その想いはTさんからFBCラジオのUさんに伝わった。そして、Uさんから大体の流れを書いたぺーパーが送られてきた。

 それを私が見てFBCのUさんに送り返した。そして、今日が本番である。2時半ごろ、FBCの本社へ向かった。受付で用件を述べ、喫茶ルームでテレビを見ながら原稿を見直していた。

 3時15分にスタジオ横の調整室へ入る。コマーシャルの間にスタジオへ入り本番。メインアナウンサーの岩本氏と女性のアナウンサーの質問に答える形でメモを見ながら、自分の考えを述べた。

  なるべく棒読みにならないよう苦労した。棒読みでは言いたいことが半分も伝わらないと思っているからだ。終盤は原稿なしに、リラックスして話すことができた。10分弱だったが、よい経験をしたと思っている。

 終わった後、番組は続いていたが記念写真を撮ることができた。帰り際に、番組を収録したCDをいただいた。楽しい経験ができたと思っている。
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 今日のテーマは「背中での教育」とした。私が語った一部分だけ紹介すると、

山 「最近の子ども達の放課後生活を見ていますと、児童館で過ごしたり、クラブ活動をしたり、習い事をしたり、スポーツ少年団で過ごしたりと、大人達と過ごすことが ほとんどですね。」

山 「大人の指示に従って行動したり、大人が仕切っている場合がとても多いと思っています。一見、子ども達のためにやっているようですが、大人達は結果を急いだり、自分の満足感の為にやっている場合も少なくないんです。
  これでは、子ども達が  自分の頭で考えたり、自分で何かを作り出すことは非常に難しいですね。大人の皆さんには 子ども達との関わり方に気を配ってほしいと思います。」

山 「常に大人が前に出るということは、“子ども達が自ら考える機会を大人が奪っている”ことになるんです。一歩引いて後から見守るような接し方が必要です。」

山 「時間がかかっても、最初は子ども達自身に 考えさせることが大切だと思います。失敗も次への大きなステップになるからです。時には逆境や挫折も大きなバネになるんです。苦労しながら自ら獲得したものは、社会へ出ても大いに役立つと私は信じています。」

山 「物事を教える方法は二通りあると考えています。
         ・一つ目は、学校の勉強のように、言葉などで直接教えることができるもの
         ・二つ目は、生き方や夢を持つことなど、背中で間接的に教えた方が効果があるもの
です。

 山 「親や周りの人達が、夢や興味を持って前向きに生きていれば、それを見ている子ども達もそのように生きようとす    るものです。子ども達に「ああしろ」「こうしろ」と言うよりも、自分がそうした方が遙かに効果は大きいと思います。

 子ども達が周囲の人達の背中を見て自ら動き始めたら、本物になると思いますよ。直接指導されなくても、野茂選手やイチロー選手の背中に励まされた人は少なくないと思います。周りの人達の情熱は子ども達に 伝わるものなんです。そこで、今日の私からのメッセージ。
      『見ています あなたの姿 子や孫が』
    私も自分の夢を追いかけてがんばっていきます。
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家庭菜園横の円形花壇の花々。バックに見えるのは私の事務所。

(日記 午前中、エンドウの支柱を立てた。昨年暮れに種をまいたが、まだ15cmほどの大きさしかない。エンドウは私の大好物だ。その後、原稿をチェックして昼食。午後1時頃、福井へ向かってFBCラジオに生出演。帰宅後も家庭菜園作業。午後7時から『区長の行政事務について』の説明会。最初に事務的な説明があり、その後質疑応答と懇談。私も少子高齢化に対する問題提起を行った。かなりの時間この話題で話が進んだ。)

 
 

「追われること」のありがたさ

23 4月

せざるを得ない状況に自分を追い込む
  私は、退職してからもやりたいことはたくさんある。しかし、現役時代と比べると時間がたくさんあるのでなかなか進まない。やりかけたことがいつも中途半端になっている。

 そんなとき、誰かが背中を押してくれるとありがたい。せざるを得ないからだ。こうして今までかなりいろんな事をやってきたように思う。

 村の民謡『片瀬豊年ばやし』を作るときもそうだった。歌は、全くできていないのに、練習日を決めてしまった。その日までに何が何でも曲だけは持って行かないと集まった連中に申し訳ない。

 そこで、曲だけをCDに焼いて持って行った。しかし、作詞は全く進んでいない。次回の練習日までに作らなければならない。毎日曲を鳴らし続けて歌詞を作った。

  今春も野向保育園から出演を依頼された。その日に合わせて必死に紙芝居を作った。頼まれなければ今もできていないだろうと思う。私の場合、時間があればできるというものではない。

  今年の3月20日に図書館から平泉寺の紙芝居をしてほしいと頼まれた。一応作ってはあったが、予てから場面を追加したいと考えていた。そして、必死になって脚本を作り絵を描いた。

 今回もまた、野向保育園から出演を依頼された。作りたいと思いながら中途半端にしておいた『ナマズのテツ』は脚本はできていたが、2枚しか絵が完成してなかった。

何とか完成させたい子ども向けの紙芝居。タイトルは『ナマズのテツ』。1日最低1枚がノルマ。

 出番は、来月(5月)16日。今日からノルマを決めて絵を描き始めた。1日最低1枚は絵を描くと決めた。そして、今日は2枚の絵を完成させた。野向保育園から出演を依頼されなかったら当分の間は完成しないだろう。

  時には、できてもいないのに、いろんな事を約束することがある。私はこれをアドバルーンと呼んでいる。第三者に意思表示をするのだ。アドバルーンを上げてしまうのだ。

  こうして、これまでいろんなことをやってきたように思う。しかし、この方法ではいつも同じ感想を持つことになる。「あと一日あったらなあ」と思うことだ。

  今もいくつかアドバルーンを上げている。童話や下手な小説、歌、紙芝居、……。家内などは間に合うかどうかとはらはらして見ていられないそうだ。

 追われるのもまたよし。私のように意志の弱い人間は。今の私にはアドバルーンがペースメーカーになっているようだ。お陰で結構毎日が忙しいが、それでも充実はしている。

(日記 午前中、紙芝居の絵を描いた。午後も作業を続けた。途中から、夜のオカリナ教室に使う曲の編曲作業。午後7時半より、オカリナ教室。楽しく演奏することができた。私には脳の体操になっているように思う。)

 
 

思い出の平泉寺中学校

22 4月

あれから45年
  私の第二の赴任地は、平泉寺小中学校だった。当時私は、24歳。今年還暦を迎えるのは当時の中学校3年生で15歳だった。担任したクラスではなかったが、恩師が高齢化しているとのことで私が招かれた。

今年度還暦を迎える平泉寺中学校卒業の皆さん。

  年の違いは9歳だったが、そんなに年が離れているとは思わなかった。勉強だけではなく、彼らといろんなことをした思い出があった。学校の授業の他に、部活動、音楽会、白山登山、宿直室での語らい、家庭訪問、詩づくり、……、今なら考えられないような思い出がいっぱいあった。

  卒業生の中には当時の卒業文集を持ってきた者もあった。その中には、私が彼らに贈った文章もあった。文章に添えて自作の歌が楽譜入りで書いてあった。『明日になれば』という歌だった。  

テーブルごとの記念写真。

              明日になれば

1.心に風の 吹く日あれば
      涙の雨の 降る日もあるさ
      今日が どんなに つらくっても
      今日が どんなに 悲しくっても
      明日になれば 明日になれば
      涙の今日は 昨日になるんだよ
   
      
2.親しい友との 別れもあれば
      愛した人との 別れもあるさ
      今日がどんなに 泣きたくても 
      今日がどんなに  苦しくっても
      明日になれば 明日になれば
      せつない今日は 昨日になるんだよ

 今回の還暦同窓会で校歌と共にこの歌を歌いたいという。幹事のO君から頼まれていたので、校歌とこの歌のカラオケを作ってあげた。

 最初の挨拶の後、この歌を歌うことになった。45年前の若かりし頃が思い出された。この頃の私は、学校生活が楽しくて学校へは遊びに行くように嬉しかった。

 授業と部活動と音楽(バンド)活動が全てのような生活であった。あれから45年が経ち、9歳の年の差はそんなに感じられないようになった。参加者の近況を聞くと、それぞれがそれぞれの人生を歩んでいたことがよく分かった。

 必ずしも順風満帆ではなかったかもしれないが、それぞれがそれぞれの人生を精一杯生きていたようである。そして、さらに仕事を続けようとする者、新たな人生を踏み出そうとする者、いろいろだ。

 私も彼らを見ていると、自分の人生を自分なりに充実させてこれからを生きていきたいものだと改めて感じた。同窓会の途中に、私の太鼓グループも祝太鼓を披露した。

今日集まった親父バンドの皆さん。大学の軽音楽部のOBで皆音楽好きだ。私は最年長。

(日記 午前0時半頃家内が突然苦しみ出した。下腹部に激痛が走り、我慢の限界を超えていた。そこで、医科大へ行くことにした。到着後もかなり待ってようやく診察をしてもらえた。全てを終わったのは午前4時過ぎだった。その後帰宅して少し寝た。遅めに起きて、先ず太鼓のための篠笛の練習をして、ホテルへ太鼓を運んだ。正午から始まる昭和42年度平泉寺中学校卒業の皆さんの同窓会に担任ではなかったが招かれた。ここで、私の太鼓グループも祝太鼓を披露した。その後、私のスタジオで今年初めての「おやじバンドの練習があった。今日集まったのは5人だ。今年も頭の体操としておやじバンドにも取り組みたいと思う。充実した一日だった。)

 
 

桜と団子とY君と

21 4月

久しぶりの再会
  今日は勝山の桜も満開だ。夕方、家内と二人で桜を見るために弁天河原へ向かった。駐車場へ車を止めて堤防の桜のトンネルを歩き始めた。

桜と一緒に記念写真。

  明日は雨が降るという。今年の見納めかもしれない。家内と二人で堤防を歩いていると、時々知り合いと出会う。立川のテントでソバを食べようとテントの中へ入ると知り合いのSさんと出会い、ビールをごちそうになった。

  次のテントで団子を買おうとすると、今度は昔の仕事仲間のSさんとばったり。いずれも懐かしかった。さらに次のテントでは知り合いのSさんのお父さんと出会ったのであいさつすると、テント(茶屋)の中へ案内された。

  そこでなんと3年ぶりにY君と再会した。他に、彼の弟さんとおばあさんもおられた。また、模擬店にはお母さんもおられ、唐揚げなどをいただいた。

妻も桜と記念写真。

  Y君は、私の娘と同級生で、単身アメリカへ渡り、数年前にカリフォルニア州のサンディエゴで中古車や新車などを販売する「CAR BANK」を設立したのだ。従業員は20名あまりいるという。これだけでもすごいことだと思う。

 Y君のサンディエゴの会社( http://www.carbankinc.com/ )

  私は、彼の高校時代に背中を押したような所があるので彼の動向にはいつも注目していた。彼が日本へ帰ると、話をするのが楽しみだった。

 今回も、しばらくは日本にいるという。久しぶりの再開で積もる話しをした。彼と話をしているうちに、私はパワーをもらったような感じがした。今後の彼のアクションにも注目したい。

桜と鯉のぼりは今や4月の勝山の風物詩。

  彼は日本にいても、ネットを使いながら仕事をしているという。車を輸入したり輸出したり、部品を仕入れたり、販売したりしているという。またドライビングスクールもやっているという。時差の関係で仕事は深夜になることが多いらしいが。

 まだまだ話をしたかったが、「今度は一緒に飯でも食べよう」と約束して別れた。帰り際に彼のお母さんからお土産までいただいた。

 桜を見て、団子やソバを食べビールを飲み、思いがけないY君との再会。とても楽しかった。家内曰く。「桜って人と人と出会わせるんにゃね」と。

Y君と模擬店で記念写真。楽しい時間を持つことができた。

(日記 午前8時より法人から頼まれて農作業。今日の作業は里芋の植え付けだ。その後、帰宅して童話を書いた。昼食後も午後2時15分まで童話を書き続けた。実は、私は童話サークル「かっちゃま児童文学会」の代表で、今日の午後3時からその例会があるのだ。おまけに、作品を書いておかなければならなかったのだ。宿題のしてない子どものようなものだった。午後3時から会員同士で作品を読み合い、感想を述べ合った。次回は、この会の顧問で児童文学者・藤井則行先生をお招きして会員の作品を批評していただくのだ。私の童話のタイトルは『弱虫惣兵衛』だった。例会の後、妻と桜を見るために弁天河原へ出かけた。そこで、久しぶりにアメリカで会社を経営しているY君と再会し、楽しい時間を持つことができた。充実した一日だった。)